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山崎直子

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やまざきなおこ・1970年千葉県松戸市生まれ。93年東京大学工学部航空学科卒業。96年同大学大学院航空宇宙工学専攻修士課程修了。96年4月よりNASDA(宇宙開発事業団。現JAXA:宇宙航空研究開発機構)に勤務し、日本実験棟「きぼう」のシステム・インテグレーション(開発業務)に従事。99年2月NASDAよりISS(国際宇宙ステーション)に搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者に選定され、宇宙飛行士の基礎訓練に参加。2001年9月に宇宙飛行士として認定される。10年4月、スペースシャトル「ディスカバリー号」によるISS組み立てミッションに参加、ロードマスター(物資移送責任者)として、物資移送作業全体の取りまとめや、ISSおよびスペースシャトルのロボットアームの操作などを担当。帰還後、JAXA勤務の傍ら東京大学で航空宇宙工学の研究に従事。11年8月にJAXAを退職後は内閣府の宇宙政策委員会委員や立命館大学、女子美術大学客員教授を務める。著書に『何とかなるさ!』(サンマーク出版)、『瑠璃色の星』(世界文化社)、『夢をつなぐ』(角川書店)など。15年7月に日本ロケット協会理事に就任し、「宙女(Sorajo)」ボードを設置。

自分のスペシャルを持つ、そして目標達成への道は一つではない

宇宙への憧れは子どものころからですが、宇宙飛行士を目指して一直線に突き進んだというわけではありません。宇宙飛行士になりたいと思っても、当時はどうすればなれるのか、そんな情報さえありませんでした。ですから、どんな仕事をしたいかを考えたときに、宇宙にかかわる仕事がしたい、宇宙開発に携わりたいというのが最初にあって、それでエンジニアを志し、大学院で航空宇宙工学を専攻して、当時のNASDAに入社したわけです。

 

大学院在学中にアメリカへ留学をしている時、たまたま宇宙飛行士の募集があり、それに応募したのですが、結果は不合格。それで、悔しくて、でも挑戦すること自体が楽しくて、「次は頑張ろう!」と思いつつ、その後NASDAで働いて3年目の時に、2度目の挑戦で宇宙飛行士の候補になることができました。

 

宇宙飛行士の試験は1年がかりで行われるんですね。書類審査に始まって1次試験、2次試験と、1年という長い期間をかけて選考していく。一つひとつのステップごとに、面接や作文などを通じて「なぜ宇宙に行きたいのか」をより深く考えることになるわけです。何度も自分に問い直すうちに、「宇宙に行くだけが目的じゃない。そこで何をしたいのか」を、深く考えることができました。一般の就職活動においても、漠然とその会社に入りたいというだけでなく、なぜ入りたいのか、そこで何をしたいのか、について深く考えることが大切だと思います。

 

宇宙飛行士の条件の中には「自然科学系の研究・開発の仕事に携わった経験が3年以上あること」という項目があります。これはキャリアを積み上げて、その得意分野を宇宙で生かしてもらうことを意図したものです。まずは実務経験を重ねて自分自身の強みをつくる、何か一つ「自分はこれのスペシャリストです」と言えるものを持つことがマストなんですね。これは何も宇宙飛行士の世界に限ったことではありません。就職に際して、その会社でどんな仕事をしたいのかを考えると同時に、自分自身に何ができるのか、何をもってその会社に貢献できるのかを考えてみてください。そうすれば、何が足りないのかわかるでしょう。足りないものがわかったら、少しずつそれを身につけていくことから始めてみてはどうでしょうか。

 

そのとき、多くの人は最短ルートをたどろうとします。それは間違いではないけれども、ゴールへの道は一つではないということをわかってほしい。決して焦らないでもらいたいですね。すべてが自分の思い通りに進み、ステップアップしていける人はほとんどいないのではないでしょうか。希望とは違う仕事を与えられたとしても、その仕事をこなしていく中で、また別の道が見えてくることもあります。

 

私はNASDAに入ってから、ISSへ日本が提供する実験棟「きぼう」プロジェクト・チームに配属されたのですが、実はそれは私の希望とは違うものでした。でも結果的には、そこでの仕事が私にとって大きな財産になりました。自分が思っていたものではなくても、長い目で見てみると大きな意味を持つことがあるとわかったんです。プロジェクト・チームにはたくさんのメンバーがいて、自分の考えだけでは前に進めません。さまざまな状況の中で、希望通りにならないことが多いのですが、その道をどう歩むかは自分でコントロールできるんですよ。What(何をするか)の部分は思い通りにならなくても、How(どうするか)の部分では自分で決めてほかの人と違いが出せる、そのHowを意識して仕事に向かうことが大切だと思います。だから、焦らずに長い目で見てほしいですね。人生のどこかで必ずチャンスがあると信じることができれば、下積みにも意味が生まれてきます。目の前にある仕事をつまらなく感じることがあっても、まずはそれに注力してみることで、何か新しいものが見えてくるはずです。環境や周りのせいにしたり、言い訳をしていると、新しい発見や出会いに気づかずやりすごしてしまう。それを生かして自分の強みに変えられるかどうかは、本人の考え方次第なのではないでしょうか。

 

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プロフェッショナルは学び続け、行動することから生まれる

仕事をする上で大切にしているのは、学び続けることです。宇宙飛行士はプロフェッショナルが集まっていますが、そこに身を置くようになり、前に進めば進むほど、知らないことがいかに多いかを知り、愕然(がくぜん)とするときがありました。だからこそ、謙虚に学び続けることが大切です。

 

スペースシャトル1号・コロンビアの船長を務めた、ジョン・ヤングさんは引退してからも、スペースシャトル計画やISSのミーティングに参加されているのですが、ヤングさんの現役当時と比べて当然、機器やシステムは大きく進歩していますし、体制や外部環境も変化しています。その中で、ロシアの有人宇宙船「ソユーズ」との連携などについても議論するわけですが、あれだけのベテランで、私たちからすれば神様のような人が「このシステムは何ですか?」「この略語は何という意味ですか?」と、質問をされるんです。「ぼくは古い人間だから新しいことは教えてくれ」とか「日本の『きぼう』をよく知らない。どのような目的を持っているのか教えてくれ」と聞かれるんですね。いくつになっても知識欲が旺盛なんです。真のプロフェッショナルとは、このように学び続ける姿勢から生まれるのだと実感しましたし、それはずっと見習っていきたいと思います。

 

世の中はものすごい勢いで進歩しています。IT、医療、介護、どの分野をとってみても、今の常識がいつまでも常識であるとは限らない、今の正解がこの先も変わらず正解であるとは限らないということです。そういう問題意識を持って学び続けていけば、いつか自分の道が見つかり、自分なりの答えを導き出せるのではないかと思います。

 

それからもう一つ、学んだら試してみる、行動に移すことが大切だと思っています。やりたいことやゴールは向こうからはやってきません。自分から行動を起こさなければ、わからないことがある。本や資料を読む、情報を集めるだけでは知り得ないことがあります。よく考えていたつもりでも、実際に行動してみたらまったく違っていたという経験は誰にでもあるでしょう。それに、行動することによって自分がやりたいことに気づく、目標がはっきりしてくることがあると思います。最初からゴールが見えている場合もあるでしょうが、私の場合は動いていく中で見えてくることが多かったですね。中学生の時にアメリカの女の子と文通をして、留学したいという目標を持つようになりました。また、留学先で70代の現役パイロットの方に出会ったことで、宇宙飛行士への夢を再確認しました。動くことによって新たな出会いが生まれ、それが刺激となってまた次の道につながっていくのだと思います。ですから、勇気を持って行動してもらいたいですね。そのとき自分を勇気づけてくれるのは、どれだけ真摯に学んできたか、考えてきたかということだと思うんです。

 

今後の目標についてですが、私自身はまた宇宙に行きたいと思っています。それが一つと、さらには、宇宙をもっと身近なものにしていくことがもう一つの目標です。

小惑星探査機「はやぶさ」などを通じて、宇宙に興味を持つ人が増えてきています。だから多くの人が宇宙旅行に行くとか、宇宙空間に工場をつくるとか、宇宙を身近なものにしていくことが重要になってくるはずです。そのために、これまであまり宇宙と関係がなかった分野と宇宙を結び付ける、宇宙のことをリアルに伝えるなどの活動を通して、少しずつですが裾野を広げる努力をしています。高い山ほど広い裾野を持っていますね。もっと多くの人が宇宙に行けるようにして、宇宙を身近なものにするなど、裾野を広げていけたら、先端部分の研究や開発をさらに高いところへ押し上げられるのではないかと思います。

 

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INFORMATION

日本ロケット協会に設置された「宙女(Sorajo)」ボードの委員長に就任した山崎直子さん。NASAでは副長官に女性が就任するなど、欧米では女性の力が宇宙開発に生かされている。まだまだ男性比率の高い日本の宇宙開発の現場で働く女性のネットワークづくりからスタートした「宙女」。宇宙航空業界での男女共同参画を推進する活動に注目。

http://www.jrocket.org/#02

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取材・文/狩野健二 撮影/鈴木慶子

 

 


先輩たちに聞きました。社会人になったら、どんなふうに働きたい?

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社会人になったらどんなふうに働きたいですか?(複数回答)

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大学4年生~大学院2年生に、社会人になったらどんなふうに働きたいかを尋ねたところ、「生活や自分の時間を大切にバランス良く働きたい」が約8割で一番多かった。次いで、「自分の能力を生かしてやりがいのある仕事がしたい」が約半数で続き、1割台の「責任の重い仕事や社会貢献度の高い仕事がしたい」や、6.0%の「プライベートを犠牲にしても出世を目指したい」を大きく引き離す結果となった。

 

 理想的な「仕事:プライベート」の比率は?

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次に、仕事とプライベートのバランスについて、理想的な比率を尋ねたところ、一番多かったのが「仕事5:プライベート5」で全体の約3割。「仕事6:プライベート4」が約2割で続き、全体の約半数の先輩たちが、仕事とプライベートを半々、あるいは若干仕事の方に重めに比重を置きたいと考えていることがわかった。

 

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あまり気負わずに、のびのびと働きたい。(仕事5:プライベート5が理想/法学部4年/男子学生)

 

大学で専門的に勉強した土木の知識をフルに使い、日本のインフラに携わりたいと考えています。(仕事9:プライベート1が理想/デザイン工学部4年/女子学生)

 

会計とITの知識を生かして、ITコンサルタントやIT業界向けの経営コンサルタントとして働きたい。プライベートは、営業などの移動中や客待ちのときにスマホでゲームができる程度の余裕があれば十分だが、年に数回は長期休みをとって旅行をしたい。(仕事8:プライベート2が理想/総合情報学部4年/男子学生)

 

身体と精神の両面で健康を維持できる働き方がしたい。(仕事2:プライベート8が理想/美術学部4年/女子学生)

 

オンとオフをしっかり切り替えて、休日は趣味のカメラに没頭したい。オンの間は、しっかり仕事をして稼ぐつもり。(仕事6:プライベート4が理想/スポーツ科学部4年/女子学生)

 

地域医療に従事して、地域のために尽くしたい。(仕事10:プライベート0が理想/医学部4年/男子学生)

 

これまで学んできた英語とフランス語を生かした仕事をして、日本と海外の橋渡しができれば良いと思っています。(仕事5:プライベート5が理想/人間学部4年/女子学生)

 

定時に帰宅して、趣味を満喫する生活がしたい。(仕事4:プライベート6が理想/大学院薬学研究科2年/男子学生)

 

スポーツ鑑賞が趣味なので、休日は、スポーツ観戦や好きなアーティストのライブに足を運び、スイーツの食べ歩きなどをして過ごしたい。仕事をしてお金をためるのは、趣味を充実させるためと割り切っている。(仕事3:プライベート7が理想/人文学部4年/女子学生)

 

できれば研究職に就きたいが、仕事とプライベートはしっかり分けたい。(仕事7:プライベート3が理想/大学院医歯学総合研究科2年/女子学生)

 

給料はあまり多くなくて良いので、プライベートの時間を確保したい。(仕事1:プライベート9が理想/政策学部4年/男子学生)

 

仕事は、食いっぱぐれなければ何でもいい。休日の時間は、趣味の音楽や映画、舞台の鑑賞、あるいは絵を描くことに費やしたい。(仕事0:プライベート10が理想/法学部4年/女子学生)

 

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仕事、あるいはプライベートのいずれかに極端に重きを置くよりは、どちらもほどよくと考えている先輩たちが多いことがわかったわ。紹介した以外のリアルボイスでは、「社会や人々のためになる仕事をしたい」「仕事を通じて成長したい」「結婚後も仕事と家庭を両立したい」といった声も見られたわね。かくいう私も、結婚後はシゴト総研での研究と家庭、どちらも大事にしていきたいと思ってま~す! え? その前に結婚だろって? 確かに今年の目標はほかならぬ「結婚」だったけど、どうやら今年中には難しそう~。

 

文/日笠由紀 イラスト/中根ゆたか

株式会社日本旅行

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さとう・みゆき●東日本営業本部 個人旅行営業部 マネージャー。埼玉県出身。47歳。早稲田大学文学部演劇学科卒業。1991年入社。学生時代に国内旅行添乗員のアルバイトを1年半経験し、旅行商品を扱う仕事に魅力を感じた。現在、夫と2人暮らし。

10年目の異動が、仕事の奥深さと己の未熟さに気づかせてくれた

演劇学を専攻し、演劇サークルに所属していた佐藤さんが、仕事を選ぶ上で大切にしたのは「生活必需品ではないけれど、心豊かに生きる上で必要なものを扱う仕事」。演劇に携わるためマスコミ業界を志望する一方、“生活を豊かにするもの”として、旅行会社やホテル、ブライダル事業の選考も受けていた。

「在学中に、国内旅行添乗員のアルバイトもしていたんです。旅先でお客さまが笑っている姿を見るのが好きで、国内旅行を企画する仕事にも興味を抱いていました。日本旅行にひかれたのは、選考の過程で『人こそ財産だ』という言葉を何度も耳にしたからです。『旅行は、手に取れる商品でもなく、何もないところからサービスを提案するもの。いい人材がいなければ、何も生まれない』という話を聞き、個人を大事にしてくれる会社なのでは、と感じました」

 

国内旅行を通じて、日本の魅力を広く伝えていきたいと考えていた佐藤さんだったが、入社後2週間の研修を経て配属されたのは、池袋駅旅行センター内の海外旅行受付カウンター。国内旅行を扱う部署でも旅行の企画を立てる立場でもなく、海外旅行の販売や渡航手続きを担当することになった。

「それまで海外には一度しか行ったことがなく、海外旅行に関する知識はほとんどゼロ。でも、受付カウンターには毎日、海外旅行に関する情報を得ようとお客さまが途切れなく訪れます。あらゆる国の地理的な勉強から、旅行プランの詳細まで、必死に覚えていきました」

 

配属されて数カ月たったころ、ある年配の夫婦が、国内旅行の相談をしにカウンターを訪れたことがあった。対応した佐藤さんは、「お客さまのご要望に応えなくては」と、慣れない国内旅行のチケットやホテル手配、周遊チケットの取り寄せなどを、30分以上かけて進め、希望通りの旅行プランを提供した。「ここは国内旅行の受付カウンターじゃなかったのに、お手を煩わせてごめんなさい」。そう言いながら、お客さまは帰っていったという。

「ずっと待たせてしまったことに気をもんでいたら、その1カ月後、旅行から帰ってきたそのご夫婦がいらっしゃり、『あなたのおかげで本当に素敵な経験ができました』とお礼を言ってくださったんです。さらにその後、『うちの息子が海外旅行に行くんだけど…』『息子が結婚することになって、ハネムーン先を探しているの』など、ご本人のみならず、ご家族が旅行に行く際も、毎回カウンターを訪れ、私に相談してくれるようになりました。カウンター業務は、旅行という商品を“売る”だけではなく、旅行をお客さまに応じてコーディネートする専門コンサルタントである。お客さまとの出会いを通じてそんなふうに捉えられるようになり、仕事が一気に面白くなっていきました」

 

入社以来9年半、受付カウンター業務を担った佐藤さん。「あなたが勧める旅行をしたい」「旅行のことはあなたにお任せしたい」と頼ってくれる多くのお客さまに恵まれ、海外旅行に関してはスペシャリストであるという自負も芽生えていったという。

そんな入社10年目の秋、これまでの仕事とはまったく異なる、海外旅行商品部への配属が決まった。これまでお客さまに提案していた旅行の“催行管理をする側”に初めて立つことになったのだ。

「カウンターに立っていた時は、ツアー予約が入ると海外旅行商品部に連絡し、『このホテルを取ってほしい』『この日程で飛行機を取ってほしい』と依頼する立場でした。お客さまのことを一番よく理解しているし売り上げも上げている、という意識から、チケットは希望した通りの日程で用意できて当たり前だと、どこかで思っていたんです。“依頼される立場”になって初めて、自分はこれまでなんて傲慢(ごうまん)だったんだろうと打ちのめされました。催行管理をする商品部は、定められた予算内でチケットやホテルを確実に手配し、現地での添乗員さんと密に連絡を取りながら、ツアーの中身を現実的なものにしていかなくてはいけません。旅行商品を提供するとはこんなに大変なことだったのかと、カウンターにいる時には全然わかっていなかったんです。自分から見えるものだけが正しいと思っていたことに気づき、頭を殴られた気分でしたね」

 

その経験から、旅行づくりに携わるさまざまな仕事を知るため、社内外の人と積極的にコミュニケーションを取るようになったと言う佐藤さん。社外の取引業者さんから、社内他部署のメンバー、添乗員さんなど人脈が飛躍的に広がったことで、入ってくる情報量も増えていった。

海外旅行商品部を9年間経験したあとは、新設されたヨーロッパツアー専門店「新宿ヨーロッパプラザ」に配属され、課長として店舗立ち上げから運営体制の確立までを担当。ヨーロッパの魅力をより深く伝えるために、現役の人気添乗員数名をローテーションで店舗に常駐させ、お客さま向けの説明会やワインの試飲会などを開催した。海外を飛び回る添乗員さんの話を聞ける貴重な機会に、お客さまも多く来店し、週末は常に大混雑だったという。

 

現在は、東日本の全エリアにおける個人旅行商品の販売部門マネージャーとして、販売施策の立案から店舗スタッフの教育まで幅広い業務を担当している佐藤さん。経験上、店頭で日々お客さまに接しているスタッフの気持ちがよくわかるからこそ、お店にはできるだけ多く足を運び、仕事への不満や不安などにも相談に乗るようにしている。

「本社からは、お客さま一人ひとりに時間をかける丁寧な接客を求められる一方、実際の店舗では2~6人のスタッフで、国内旅行から海外旅行まで全商品を網羅しなくてはならず、常に時間に追われている状態です。私は本社と店舗間の調整役も担い、販売スタッフには、『すべてのお客さまへ同一対応は難しいよね。じゃあ今月はヨーロッパ旅行をご購入いただいたお客さまにリピートしていただけるよう意識してみよう』などと、手の届きそうなゴール設定をするなど、その人に合ったアドバイスをするよう心がけています」

 

店頭販売の現場も商品企画部門も経験し、旅行づくりにかかわる人とは社内外を問わずコミュニケーションを重ねてきた。「人脈をコツコツと作り上げ、いろんな立場の人の気持ちが理解できるようになった今だからこそできる仕事」だと話す。

「インターネットの普及によって、旅行販売カウンターはもう必要ないんじゃないかという声もあります。実際に、自分であらゆる情報を取れる時代ではありますが、人とつながってこそわかるリアルな情報もあります。マーケットの変化には敏感に、時代とともに変化していきながら、対面のスタイルだから提供できる旅行会社の新たな価値を、これからも追求していきたいと思います」

 

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ヨーロッパ旅行をさらに売っていくための販促施策をメンバーと話し合う。

 

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店頭スタッフ研修のスケジュールについて、メンバーと情報を共有する。

 

佐藤さんのキャリアステップ

STEP1 入社1年目、池袋駅旅行センターの海外旅行受付カウンターに配属

国内旅行の商品企画を希望していたが、正反対の「海外旅行の店頭販売」に配属される。「新人時代は、お客さまの話を聞くことに徹し、旅行の目的をヒアリングしながら、その方に合った最適な旅行を提案しようといつも必死でした」。3年後には、池袋駅内にあったカウンターが街中の店舗に移り、海外旅行、国内旅行すべての相談カウンター業務を担うことに。「店頭まで『とても楽しかった』と旅行の感想を言いに来てくださるお客さまや、リピートしてくださるお客さまにも恵まれ売り上げも好調。10年間、同じ店舗を担当しているので、手続きなどルーティン業務のスピードも誰よりも速く、自分の仕事にはとても自信を持っていましたね」。

STEP2 入社10年目、海外旅行商品部に異動

海外旅行商品部に異動し、「マッハ」「ベストツアー」のヨーロッパ、カナダ、ミクロネシア、オセアニアツアーの催行管理とヨーロッパ商品企画を担当。「今まで自分が販売してきたツアー商品なのに、実際に催行されるまでの流れをまったく知りませんでした。自分一人で完結できる仕事は一つもなく、カウンター業務しか見てこなかった私は、井の中の蛙(かわず)であったと思い知りました」。15年目には、マカオを「滞在型のリゾート」として売り出すプロモーションプロジェクトに携わった。現地を視察して専用のツアーカタログを作成し、販促活動にも参加。2006年には、社内の優良企画商品賞を受賞した。「マカオが大好きになり、これまでプライベートを含めて10回以上渡航しています」。

STEP3 入社19年目、新設の新宿ヨーロッパプラザに異動

日本旅行の強みである、ヨーロッパのパッケージツアーを専門に扱う新設店舗「新宿ヨーロッパプラザ」の立ち上げを担当。前例のない取り組みだったため、毎日が試行錯誤だったという。日替わりで現役添乗員さんに来てもらい、お客さま向けの説明会や相談会を毎日、1日に3回開催。渡航先で起こった面白い旅エピソードやオススメスポットなどを話してもらった。こうして、お客さまとの対話を大事にしていく新しいスタイルを確立していった。

STEP4 入社23年目、東日本営業本部 個人旅行営業部のマネージャーになる

北海道、東北を除いた東日本の全エリアを担当し、販売施策の立案や店舗にかかわる案件を管轄している。商品切り替えのタイミングには、全国の店舗を回り、販売スタッフに商品の売り方を伝えていく。「現場の声を商品部門や本社に伝えたり、逆に本社の指示を現場が受け入れやすいように言葉を選んで伝えたりと、両者の調整役を担うことが私の役割。今までやってきたことがすべて役立っています」。

ある一日のスケジュール

6:00 起床。朝食の準備、身支度。
8:30 出社し、メールチェック。一日の段取りを決める。
10:00 販促制作物などの打ち合わせ。
11:00 海外旅行や国内旅行の商品企画部との定例会議。
12:00 同僚とランチ。
14:30 店頭スタッフ研修の策定、資料作成。
16:00 店頭スタッフからの相談を電話で受ける。
18:45 退社。
20:15 帰宅。夫と夕食。
24:00 就寝。

佐藤さんのプライベート

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仕事でマカオのプロモーションに携わって以来、マカオが大好きに。写真は、マカオ名物のエッグタルト。

 

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平日も、仕事終わりに飲みに行くことが多い。写真は、友人と浅草に飲みに行くところ(中央が佐藤さん)。

 

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2015年5月に夫と奄美大島に旅行へ。カヌーに初挑戦し、夫婦で悪戦苦闘した。

 

取材・文/田中瑠子 撮影/鈴木慶子

ライフイズテック株式会社 代表取締役CEO 水野雄介さん

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1982年生まれ。慶應義塾大学理工学部物理情報工学科卒業後、同大学大学院在学中に、開成高等学校の物理の非常勤講師を2年間務める。大学院修了後は、人材系コンサルティング会社に入社。2010年7月、ピスチャー株式会社(現ライフイズテック株式会社)を設立。翌年、中高生向けIT教育プログラム「Life is Tech!」を立ち上げる。14年、コンピュータサイエンスやICT教育の普及に貢献している組織に与えられる賞「Google RISE Awards 2014」を受賞。著書に『ヒーローのように働く7つの法則』(KADOKAWA/税抜き1500円)。

仕事を語れる先生になるために、3年間限定で会社員に

高校生の時に野球をしていて、何か目指すものがある人生っていいよなと感じました。そういう意味では甲子園はわかりやすい。当時、先生や学校に不満を持ち、「自分だったらもっと良い先生になれるのに」「もっと良い学校にできるのに」と思っていた僕は、だったら高校の先生になって野球部の顧問として甲子園を目指すのもいいんじゃないかなと思いました。

 

そして物理と数学が得意だったからという理由で、大学は理工学部を選択。4年間で教員免許は取りましたが、私立高校の理系の先生は院卒でないと採用されるのが難しいという状況だったので、大学院まで進みました。早く教育の現場に立ちたいなと思っていた時に、ちょうど大学のキャンパス内で開成高校が物理の非常勤講師を募集している貼り紙を発見。もちろん応募して、大学院に在学中の2年間、高校の教壇に立って物理の授業をすることになりました。高校生と接するのはすごく楽しかったですし、やりがいもあったので、やっぱり教師を一生の仕事にしていこうと思いましたね。

 

でも、授業で物理のことは教えられるけど、それ以外のことは自分には教えられないということに気がつきました。特に仕事の話ができないのは良くないなと思って、まずは企業に就職することにしたんです。そして3年間で会社員を辞めて先生に戻るという前提で就職活動を開始。貴重な3年間を下働きだけで終えたくないので、リーダークラスになれそうな規模の小さい会社を選びました。それに、いろいろな業種とかかわる仕事の方が、先生に戻ったときに子どもたちに語れることが多いのではないかと考えたんです。そこで入社したのが、人材系のコンサルティング会社です。中小企業の新卒採用を支援するのが主な事業で、ほかに社員向けの研修や企業のブランディングなども行っていました。

 

自分で新しい教育サービスを作りたい! コンセプトは「中高生向けのキッザニア」

予定通りほぼ3年でその会社は辞めたのですが、結局、先生にはなりませんでした。というのも、当時NHKの大河ドラマとして放送していた『龍馬伝』を見て、一人の教師として良い教育を提供するのも素晴らしいことだけど、起業して自分が納得できる教育サービスを作る方が、日本の教育をもっと早くもっと良くできるのではないかと考えたからです。さらに、人材系コンサルティング会社ではずっと中小企業の社長を相手に仕事をしていましたので、「自分が社長になる」ことへのイメージも湧きやすくなっていました。

 

そして大学の同期と前職の後輩を誘って3人で起業。最初に考えたサービスのコンセプトは「中高生向けのキッザニア」です。当時、子どもが就業体験できる施設、キッザニアに注目していましたので。さらに、開成高校の非常勤講師をしていた時に、ITが好きで自分が作ったものを「見て見て!」と言ってくる生徒が多かったのを思い出しました。それって、ほめてほしいということなんですよね。ITが好きな子って、周りからはオタクだと言われてしまうことが多いし、親もパソコンばかり使っているといい顔はしない。だから、まずはITに絞って、そういった中高生の可能性を伸ばせるサービスにしようと決めました。

 

でも、日本は保守的なので、無名な企業が「新しい教育サービスを始めます!」と言っても、誰も相手にしてくれないのではないかと考えました。ベンチマークにしていたキッザニアがうまくいった理由の一つは、日本でスタートする前にメキシコで成功したからだと思うのです。僕たちがやろうとしているのはITに関すること。だったら、見本にするのはやっぱりシリコンバレーだろうということで、インターネットでいろいろ調べてみました。そして、たまたまシリコンバレーのど真ん中にあるスタンフォード大学で中高生向けのIT教育のキャンプがあることを知り、僕たち経営陣3人は現地まで見学に行くことにしたんです。

 

そこでは、自分たちでスマートフォンのアプリを作れるということや、大学のキャンパスを使って中高生が夏休みにキャンプをしていることに驚き、創業メンバー同士で「自分たちはこういうことを目指していこう!」という目線合わせもできました。

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参加者3名のサービスが、今では延べ1万人以上に

帰国後、僕たちも日本で同じようなことをやろうと思ったのですが、創業メンバーの3人は、誰もITのスキルを持っていませんでした。そこで社会人向けのIT教育をしている人に会いに行って「これを中高生向けにやりたいので教材を貸してくれませんか?」とお願いしたり、当時高校生でスマホアプリを作って有名になっていた子たちにTwitterで声をかけて「親善大使になってください」と依頼したりしました。その高校生からは、渋谷のファミリーレストランで時計アプリの作り方を教えてもらったこともあります。

 

そのころ、ある高校の先生から「一回教育現場に戻った方がいい」とアドバイスをされて、その後、会社ではサービスを作りながら、週に3回早稲田高等学校で物理を教えていました。そこで仲良くなった高校生に、日曜日に会社のオフィスで開発中のワークショップを一緒にやってもらったことも何回かあります。自分たちが作っているサービスは本当に中高生にとって楽しいものなのか、学べるのか、ということを確認するために。

 

そして起業から1年後、ついにサービスをリリースすることができました。しかし最初のデモキャンプの参加者は、3名。その後に実施した初めての夏のキャンプでは40名集めることができましたが、売り上げは150万円。運営経費を差っ引いて残った利益は30万円でした。それでも、一歩目を踏み出せたことはうれしかったですし、その後はおかげさまで参加者は伸び続け、これまでに延べ1万人以上の中高生がライフイズテックのキャンプやスクールに参加してくれています。

 

お金を払って継続的に学びたいと思えるくらい、本当に良いサービスを提供していく

サービスを始めた当初は、学校や既存の教育業界から「それは必要なことなの?」と言われたこともあります。でも、IT業界の人たちは必要だと言ってくれた。それに、学校の一つのクラスに45人くらいの生徒がいたとして、僕たちはそのうち5人くらいの「ITが好きな子」が来てくれればいいと思っていたのですが、実際にやってみたら運動部に入っている子やバンド活動をしている子など、特にITに精通しているわけではない、いわゆる普通の中高生の参加がほとんど。これはかなり意外でしたが、多くの中高生にも求められているということを確信できました。

 

とはいえ、ただITスキルを教えるということを目指しているわけではありません。僕は教師ですし、副代表は時間内に部屋の中に隠されたパズルや暗号を解くことを目指す「リアル脱出ゲーム」のディレクション経験もあるワークショップデザイナー。ライフイズテックの強みは「リアル」の価値を最大化することなんです。僕たちの作ったプログラムに参加することで、楽しいことを見つけられる、誰かにほめられる、一緒に学べる仲間ができる、憧れの先輩に出会える…。目標は「スマートフォンアプリが作れる」といったITスキルの習得かもしれませんが、その過程にはこんなにも多くの可能性がありますし、中には3時間のプログラムで、本当に人生が変わる子どもたちだっているはずです。

 

この事業を始める時、株式会社ではなくNPO(非営利団体)にしようかという話も出ていました。でも、教育というのはお金を払ってでも「また学びたい」と思えることが大事なんです。そうでなければ本質的に良いサービスだとは言えませんし、お金の出どころがサービスを受ける本人でないと、独りよがりの運営になってしまうかもしれません。中高生がまた来たくなる最高のサービスを作る。NPOではなく株式会社にしたのは、その意思表明なんです。

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これから社会に出る皆さんへ

何がやりたいのかわからないという学生が多いようですが、「見つけよう見つけよう」と思っても、時期や環境によっては見つからないこともあると思います。そんなときに大事なのは、やりたいことがないから何もやらないのではなく、今好きでやっている目の前のことを一生懸命やるということです。それは遊びでもいいですし、それこそ「モテる」ということの追求でもいいです。何かを極めるというのはとても価値のあることですし、そこから将来役に立つことが必ず得られるはずです。

 

水野さんHISTORY

2005年
慶應義塾大学理工学部物理情報工学科を卒業し、同大学院へ進学。その間、開成高等学校で物理の非常勤講師を2年間務める。
2007年
人材系コンサルティング会社に入社。
2010年
ピスチャー株式会社(現ライフイズテック株式会社)を設立。スタンフォード大学のIT教育キャンプを見学に行くなど、サービス立ち上げの準備を行う。
2011年
中高生向けIT教育プログラム「Life is Tech!」のサービスを開始。

 

愛読書は?

『ROOKIES』(集英社/1巻あたり税抜き638円)はかなり読みましたね。ご存じの通り不良高校生が甲子園を目指すストーリーなのですが、僕は主人公の川藤先生から教育の大切なことをたくさん学びました。例えば、川藤先生がほかの教員に対して「デパートでは子どもはすぐに疲れた、抱っこしてと言いますがなぜだかわかりますか?」「それはすべての商品が大人の目の高さを想定して並べてあるから」「教師も生徒の目線を持って接しないと」といった内容を話すシーンがあります。教育に興味がある方にとっては、すごく勉強になるのではないでしょうか。

 

水野さんの愛用品

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通勤用の自転車です。以前は自宅からオフィスまで徒歩1分だったのですが、オフィスを移転してから徒歩で10分くらいかかるようになってしまいました。通勤時間は無駄なので、とにかく短くしたいと思って自転車を買いました。これなら3分でオフィスまで来れます。健康のためではなく、時間短縮のための自転車なんです(笑)。

取材・文/芳野真弥 撮影/刑部友康

インターネット関連会社内定 金沢大学 中川 葵さん

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就活データ
志望業界:マスコミ、IT企業 説明会参加:18社(うち合同企業説明会7回) 先輩訪問:4人(テレビ局3人、IT企業1人) エントリーシート提出:4社 面接:5社 内定:2社(IT企業2社) 活動費用:約4万5500円(交通費4000円、スーツ等4万円、履歴書・写真・封筒代1500円。県内での就活により車移動のため、交通費はほぼガソリン代。「マスコミは証明写真が肝要」と聞いたが、スピード証明写真機を利用して写真代を節約)

アルバイトでの経験で芽生えた、裏方の仕事への意欲

高校生の文化祭で、幼いころから打ち込んできた電子オルガンの演奏を披露する、ライブ出演という貴重な機会を得たことがあります。ステージ裏で頑張っているプロデューサーをはじめ、スタッフたちの、演者を押し出してくれる力に支えられ、とても心強かったことが、記憶に深く残っています。大勢のスタッフがそれぞれの役割を果たし、一つの仕事を皆で成し遂げる姿に心を動かされ、私も人の能力を最大限に引き出せる存在になりたいと憧れていました。表舞台を支える裏方の仕事の魅力にひかれはじめたのは、そのころです。

 

私の就活に最も大きな影響を与えたのは、ラジオ局でのアルバイトです。仕事内容は、ゲストへコーヒーをお出ししたり、番組で流す音楽を探したり、リスナーからのメールを渡したり、リクエストの電話を受けたり、いわゆるサポート役です。裏方のほんの些細な仕事であっても、番組進行の一端となる充実感を得ることができ、いつしかメディア系の仕事に就きたい気持ちが高まっていき、テレビ局のディレクター志望へとつながっていったんです。

 

同時に、「結婚・出産後も働き続けられる仕事に就く」という人生設計を考えた結果、システムエンジニア(SE)も視野に入れました。これは、設計士である母が自宅で仕事と子育ての両立を成功させていた様子を見てきた影響からですが、将来的にもインフラとしてITはますます必要になり、仕事はなくならないはず。そんな自分なりの分析から、ソフトウェア開発を手がけるIT企業も志望先に加えたのです。

 

説明会や訪問を通して、自分に合う企業を見いだす

大学3年1月末の合同企業説明会を皮切りに、会社説明会にもできる限り参加しました。そこでは、人事担当者や社長など、いわば会社を代表する「顔」として来られている方の服装や表情、話し方に注目。なぜなら、そこで働く人を見れば、企業の社風が垣間見られると考えたからです。

 

やみくもに志望業種を広げていくことはせず、テレビ局とIT企業の2業種、プレエントリーは10社以下に絞り込みました。直接、企業にコンタクトを取り会社訪問を行った企業もありますが、大学の先輩のつながりを活用して、OB・OG訪問も実施。仕事の忙しさや、エントリーシートはどのように書いたのか、面接はどんな感じだったのかなど、具体的な話を尋ねました。また、すべての方に「お休みの日は何をしていますか?」と質問。その会社でメリハリのある充実した生活ができているかどうかも、企業を見極める材料だからです。説明会で得た企業の情報はもちろん、担当者が語ったこと、さらにはそこで自分なりに感じたことなど、徹底的に就活ノートに記録して、エントリーシート作成時には大いに活用しました。

 

面接では、笑顔を絶やさぬことを第一に、幼いころから両親や祖父母から教えられてきた「話をする人の顔を見る」という、人としてすべき、ごく基本的なことを一貫しました。集団面接の時にも、ほかの人が話す時には話し手に体を向け、顔を見て、相槌を打ちつつも、行動がオーバーにならないように配慮。また、もともと話すスピードが早過ぎる傾向があると自覚していたので、落ち着いた印象を与えられるように、就活を機に意識してゆっくりと話すように心がけました。

 

就活で大変だったことは、企業から不採用を受けた際の精神面の立て直しです。特に第1志望のテレビ局は、アルバイト先のラジオ局と同じ会社であり、インターンシップにも参加したから、きっと内定が出るはずと、心のどこかで油断していたのです。社員たちがこれまでの自分の働きぶりをきっと見てくれていたと信じていただけに、そのテレビ局から不採用の連絡が来た時には、自分のすべてが否定されたようなショックを受けました。アルバイトと正社員とでは求められることも違うし、想像以上に厳しい世界だとあらためて思い知らされましたね。でも、「不採用となったのは自分に合わない会社だということ、もし入れたとしても後々辛い思いをするだろう」と、必死に気持ちを切り替えました。その後に向かった面接ではリラックスしてこれまで以上に自分らしさを表現でき、その結果、チャレンジのつもりで受けたIT会社から内々定を獲得できたんです。

 

最終的にWebディレクターとして採用された企業に決めました。「一番面白い仕事ができる企業」と思え、社歴が浅い社員でも直接トップに発言しやすい風通しの良さがあり、何事もどんどん挑戦していける社風が魅力です。Webディレクターの仕事は、エンジニアとデザイナーなどの橋渡し役などを行い、チームを束ね、一つの仕事をゴールまでまとめ上げること。まさに裏方の仕事に通じていて、自分が求めていた仕事に近づけたのではと思っています。

 

低学年のときに注力していたことは?

大学1年の後半、先輩の紹介でラジオ局のアルバイトを始め、生放送のライブ感や番組づくりの現場に直に触れました。2年生のころ、教授の紹介で新聞社のインターシップに参加して、メディアの仕事の厳しさも体感。次第にテレビ局への興味が湧き、低学年のころからメディア業界のことやマスコミ志望者の就活体験記をインターネットなどで調べて参考にしていました。ラジオ局のアルバイト経験が、マスコミ志望への意欲を強める一番大きなきっかけとなりましたね。

 

就活スケジュール

大学3年8月
インターンシップやセミナーに参加
大学のインターンシップ準備合宿にて、初めてビジネスマナーや自己分析といった就活の準備について考える。テレビ局のインターンシップでは、華やかなイメージとは一変して、番組進行中、それぞれの持ち場で尽力する社員の真剣な姿を目にして、一人ひとりの力が番組づくりにかかわるチームワークに魅力を感じ、マスコミ入社に気持ちが傾く。また大阪と東京の就活準備セミナーにも参加し、全国の学生がどのように動いているのかを観察。
大学3年1月
初の合同企業説明会に参加
ある程度志望企業にめどをつけて、以降の合同企業説明会でも継続して話を聞き出し、入社意欲をアピールするためにも、人事担当者の名前や特徴などを細かくメモ。社会人と積極的に話し、その企業で働く感覚をそのままエントリーシートで生かせるように記録した。学内の面接練習に参加し、初めて集団面接を体験。
大学3年2月
業界・業種を絞り込む
大学内で実施されていた業界別ガイダンスに参加し、自分の興味がある業界を絞り込んだ。合同企業説明会で興味を持った会社のうち会社見学を行っていない企業には、自分でアポイントメントをとって積極的に社内の雰囲気を感じ取りに行く。Webテストなどの対策も始める。
大学3年3月
エントリーシート提出・面接スタート
合同企業説明会に積極的に参加。自分の興味がある会社が絞られ、エントリーシートも初めて提出。期限ぎりぎりにならないように心がける。下旬には面接も始まる。
大学4年4月
個社説明会がピーク
説明会では、その会社の雰囲気をつかめるよう、なるべく人事担当者と話すよう意識。中旬には初めての最終面接も受けた。地方局の面接や試験も始まる。テストでの時事や一般常識で答えられない問題があり、マスメディア業界の勉強が不十分であることを実感。
大学4年5月
志望企業から初の内々定
地元のIT企業からSE職として初めて内々定をもらう。一方で第1志望の地方局の選考も始まり、面接を受けるが不採用に。内定をもらったIT企業にお世話になろうと落ち着く。
大学4年6月下旬
最終選考
就活は終わったつもりでいたが、前の選考からずいぶん時間が経ち、忘れかけていた別のIT会社のWebテストを突破し集団面接に進んだとメール通知。最後の就活だと思い選考を受けに行く。
大学4年7月
最終面接
緊張しつつも、今までよりも一番自分の素直な気持ちを伝えられた面接に。当日、内々定が出る。「この会社なら、いろんな挑戦をしながら面白い仕事ができる」と確信し、入社を決める。先に内々定をもらっていた会社には内々定辞退の連絡をして、就活が終了。

就活ファッション

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黒のリクルートスーツと白のシャツで就活。長時間歩かないので、靴は足がきれいに見える少し高めのヒールを選んだ。顔周りがすっきりするように、第一ボタンが低い位置のシャツを愛用。襟がしっかり曲がるようにアイロンで癖付けした。母親から借りた小さいサイズの黒かばんを用い、荷物は最小限に。髪形は少しコテで巻いてから低めのポニーテールにしたり、編み込んでまとめたり、面接先の雰囲気を考慮してアレンジした。

 

取材・文/木戸珠代 撮影/池田紀幸

株式会社ニトリ

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うえの・たかふみ●八千代店店長。埼玉大学工学部応用化学科卒業。2007年4月入社。業種を絞らず、医薬品メーカー、金融、小売業、メーカーなど30社以上の説明会に参加。就職活動を進めていく中で「世の中にない商品や付加価値を生み出すことで、社会に貢献したい」という夢が具体的に。それを視野に10社の選考を受け、最終的にサプライチェーン(※1)であるニトリに可能性を感じて入社を決意。
(※1)原材料の調達から、製造、在庫管理、販売、物流までの全プロセスがつながっていること

お客さま目線に立った売り場管理と接客など、現場で仕事の本質を学ぶ

家具・インテリアの企画・製造・販売をはじめ、リフォーム事業、オフィス・医療・福祉施設・教育施設の提案から施工、ショッピングセンター事業など、“住まい”に関連するビジネスで、業績を拡大している株式会社ニトリ。

 

2007年、最初に上野さんが配属となったのは埼玉県の新座店。入荷した商品を店頭に並べる入荷処理を教わり、入社2カ月後には、リビング組立家具売り場を任されるようになった。
「担当したのは、在庫と展示の管理。売れている商品を把握し、すみやかに店頭に並べる仕事です。大変なのは、組立家具を新しい状態で維持すること。たくさんのお客さまが展示商品の扉や引き出しの開閉を試すため、ネジが緩んだり、汚れがついたりします。そうした状態で展示していても、購買には結び付かないので、在庫を切らさないことはもちろん、完全な形で展示されているかどうかを、店内を回って常にチェックしていました」

 

ニトリの商品は、単価が比較的高い「家具」と、カーテンやカーペット、布団、小物雑貨などの単価の低い「ホームファッション」に分類されている。家具は接客しながら商品を案内して販売する、ホームファッションはお客さまが自由に商品を吟味し、セルフサービスで購入してもらうのが、ニトリの販売方法。

 

「当時、組立家具はホームファッションに分類されていたので、“お客さまから声をかけられない販売”を目指しました。商品を見れば魅力や使い方が伝わるよう展示して、きちんと在庫が並んでいれば、お客さまは店員にたずねなくても、気軽にお買い物をしていただけるからです」

 

新座店での10カ月間で上野さんが学んだのは、お客さま目線に立った売り場管理の重要性。「商品の展示と在庫管理を徹底すれば、おのずと売り上げが伸び、数値に結び付く」ということを体感することができた。

 

異動した同じ埼玉県の武蔵浦和店では、初めて家具売り場を担当することに。お客さまは、家具の中でも単価の高い商品より、手ごろな価格の商品に目がいきがちだが、そういった商品にお客さまの望む付加価値があるとは限らない。だからこそ、商品価値をきちんと説明して、お客さまのニーズを聞き出す接客が重要となる。

 

「私がまず行ったのは、お客さまの行動観察です。初めての来店なのか2度目なのか、どんな順番で商品を見ているのか、何時間滞在しているのかなどを観察した上で、お客さまの声を聞く接客に入ります。新規購入なのか買い替えなのか、誰が使うのか、将来どのような家庭にしたいのかといったお客さま目線に立った接客をすることで、求めている商品を的確にご案内できる。こうして、お客さまの一挙手一投足に気を配った結果、自然と成約率が上がっていきました」

 

ホームファッションから家具を担当することになっても、物事の本質は変わらない。常に相手の立場で接客方法の試行錯誤を重ねた結果、「武蔵浦和にすごい新人がいる」と、上野さんの名は社内で知られるようになった。

 

「ニトリでは配転教育といって、平均して2年から3年で配置替えがあり、さまざまな経験をできるので、毎回新鮮な気持ちで業務に当たることができます。配転教育で学んだのは、何をするにしても、誰のためにやっているのか、何のためにやっているのかという目的が大事だということ。お店の業務でも、ホームファッションと家具ではやっていることはまったく違いますが、その本質は変わらないということを学びました」

 

1年間家具を担当してホームファッション担当に戻ってからは、それまで価格順に並べていた商品展示を、頻繁に手に取られている中間価格帯商品や人気アイテムを目立たせるよう工夫した。また、セルフサービスが基本のホームファッションでも、羽毛布団などの高額商品には接客を取り入れるなど、良いと思ったことを次々と提案し、新たなチャレンジをしていった。

 

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フロアではスタッフに気軽に声をかけ、作業状況などを確認。フロアが複数階に分かれているので、インカムを装着し、目の届かない売り場の状況も常に気にかけている。

 

ニトリマニュアルシステムの制作や採用活動へのSNS導入など、「変える」を実践

3年目、上野さんは業務システム室タスクというプロジェクトチームに抜てきされ、従業員用のマニュアル改革に取り組むことになった。実は、新人時代にマニュアルに不満を感じ、社内の問題提起ツールを通して改革を提案していた。当時は冊子のマニュアルが何冊にも分散していたため、探したい情報にたどり着くのに苦労したからだ。

 

「パートスタッフなどの入れ替わりが多いので、誰でもすぐに同じ作業をできることは、とても重要。マニュアルを改善すれば、新人も知りたい情報をスピーディーに検索でき、ムダやムラを省いた店舗運営ができると考えたのです。自分が変えたいと思ったことを実現できるチャンスをもらえて、すごくうれしかったですね。『新人の目線も大切にしてくれる会社なんだ』と実感しました」

 

プロジェクトチーム12名でデータの一元化に取り組み、Webシステムを利用したニトリマニュアルシステム(NTMS)を制作。文面をわかりやすく変え、文章で理解しにくい内容は動画を加えるなどの工夫を凝らし、検索機能も付けて、3カ月で完成させた。

 

その後、人財採用部に着任し、新卒採用を担当した。上野さんは「変える」ことを意識して、新卒採用活動に当たり、面接方法や回数といった選考方法、採用に利用するツール、採用コストなどをイチから見直した。

 

「見直しに時間はかかりましたが、結果的には、より優秀な人財を採用することができ、企業認知度もアップしました。その当時画期的だったのは、採用ツールにFacebookを導入したこと。採用コストを抑えつつ、企業認知度の向上に役立ちました。SNSを採用ツールに利用して成功したことから、その後は公式企業ページにもSNSを利用するようになりました」

 

その後、赤羽店勤務を経て2014年2月からは千葉桜木店勤務となった上野さん。異動時にホームファッションフロアを統括するフロアマネージャーに昇進し、1カ月先の商品入荷を見越して人員シフトを計画するという新しい任務が加わった。
「やりがいを感じるのは、自分が立てた計画通りに新しい売り場が完成したとき。商品の入荷前に売り場を想像しながら、必要人員と日数を予想するのですが、いざ始めてみると来店客が多くて作業が進められない、展示用備品が足りないなど、不測の事態で頓挫することもしばしば。もちろんイレギュラーな事態も計算に入れるのですが、予測を上回ることもある。それだけに、計画と結果が一致したときの達成感は大きいですね」

 

同年6月からは、副店長として家具フロアを統括していた上野さんは、利益と効率を上げる労務管理、販売数値や品種ごとの分析報告といった店長業務も代行するように。そして、15年10月17日からは、同じ千葉県にある八千代店の店長に昇進した。

 

「私の仕事は『変える』ことであり、それが自分の存在価値だと思っています。周囲に何かを伝え、認められてこそ、生きている実感が得られるのです。目下の目標は、八千代店をこれまで以上に地域で認められる店にして、周りに住むお客さまの住まいを豊かにしていくこと。そして将来は、商品部や物流の仕事などのサプライチェーン全般を経験して、自分のスキルを増やして、いつかグループ会社の経営に携わるのが夢ですね」

 

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朝はオペレーションルームのデスクで、メールチェックや前日の販売実績確認を行う。営業時間中は、売り場に目配りできるよう、各フロアのカウンターにあるパソコンで作業している。

 

上野さんのキャリアステップ

STEP1 2007年  新座店と武蔵浦和店にて店舗オペレーション全般を学ぶ(入社1年目)

3月1日に新入社員研修がスタート。同期300名と、本部で5日間チェーンストア理論やビジネスマナーなどの研修を受けたのち、5日間の店舗研修で商品展示や接客、電話対応などを学ぶ。3月下旬、新座店に正式配属となり、ホームファッションの入荷処理など店舗オペレーションの基本を学ぶ。10カ月後、武蔵浦和店に異動。2カ月間ホームファッションを担当したのち、家具担当となり、お客さま目線に立った接客を心がける。観察する、話を聞く、短時間で成約に結び付けることを意識した結果、その名は社内で知れ渡ることに。その後、7カ月間ホームファッションを担当。

STEP2 2009年  スタッフ部門でマニュアル整備や家具レイアウトの標準化などを経験(入社3年目)

新人時代にマニュアルの改善を提案したことから、業務システム室タスク(プロジェクトチーム)に抜てきされ、ニトリマニュアルシステム(NTMS)の制作に携わる。紙ベースで点在していた多岐にわたるマニュアルをデータに転換し、3カ月間で一元化を果たす。その後、スーパーバイザー部タスクに異動し、各店舗で行っていた商品発注や展示を、商品部主導に切り替えるための準備作業に携わる。1カ月かけて、既存の各店舗に合わせた基本の家具レイアウトを作成して標準化。これにより、売りたい商品が目立つ売り場の維持と欠品の削減が可能となった。

STEP3 2010年  店舗業務を経験後、再びスタッフ部門で人財採用に携わる(入社4年目)

戸塚店の新規オープンに伴って異動。2週間後の開店に向けて、ゼロからの商品展示やパートスタッフ10名の教育などを実践。チームワークの素晴らしさに感激し、店舗のフロアマネージャー昇進を目指していたが、9カ月後に人財採用部への異動辞令が届く。予期していないタイミングでの辞令に戸惑いはあったが、店舗運営だけでなく、会社の将来を支える新卒採用を経験しておくことも自分のキャリアに役立つと納得。11年より2年6カ月間、人財採用部で東日本エリアの新卒採用を経験。13年、赤羽店に異動し、7カ月間店舗オペレーションに携わる。

STEP4 2014年  千葉桜木店でフロアマネージャーと副店長を経験後、八千代店店長に(入社7年目)

千葉桜木店への異動と同時に、ホームファッションを統括するフロアマネージャーに昇進。4カ月後、家具を統括する副店長に昇進。家具の客単価と買い上げ品目数の向上を目指し、作業の稼働計画と人員シフト計画、あるべき商品構成の維持・管理、作業方法や売り場展示方法の改善など、店舗オペレーション全般の管理を行う。15年10月17日、千葉県にある八千代店に異動し、店長に昇進。

ある日のスケジュール

9:00 出社して、売り場を巡回。メールをチェックして、本日のシフトの出勤者と引き継ぎをする。
9:45 全出勤者10~15名で朝礼。前日の販売実績や連絡事項の報告、あいさつの声出しなどを行う。
10:00 開店。入り口で来店客にあいさつ。その後、店内の状況と人員配置の確認。
12:30 ランチ休憩。妻の手づくり弁当を食べることが多い。
13:30 オペレーション管理、本部からの急な指示などのイレギュラー対応。
15:00 副店長と、翌週の作業計画についてミーティング。
16:00 入社間もないスタッフに店内で接客などを教育。オペレーション管理。
18:00 当日の作業状況の最終確認と翌日以降のリスケジュールをして退社。

プライベート

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半年ほど前からランニングを始めた。子どもが寝た後の20時過ぎから、週3回、5~7キロメートルほど走る。「走ると心地よく疲れて心地よく眠りにつけますし、走った後のビールは格別です(笑)」。

 

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夏は11連休、冬は8連休と年2回のリフレッシュ休暇を利用して、家族で海外旅行に出かけることが多い。写真は2015年2月に行ったグアム。歩き出したばかりの1歳半の長女と一緒に。

 

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2015年の夏祭りで、初めて浴衣を着て上機嫌の長女。「お祭りで生まれて初めて口にしたかき氷に、とんでもない表情を見せましたが、気に入った様子。きれいに平らげましたよ(笑)」。

 

取材・文/笠井貞子 撮影/刑部友康

帝人株式会社

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企業PROFILE
1918年、日本初のレーヨン(繊維の一種)メーカーとして創業。現在は、「モビリティ」「情報・エレクトロニクス」「ライフプロテクション」「環境・エネルギー」「ヘルスケア」の分野に向けて、高機能繊維・複合材料、電子材料・化成品、ヘルスケア、繊維製品・流通、ITなど、多岐にわたる事業をグローバルに展開。事業間の強みを融合した新規ビジネスの創出や、モノにサービスを付加したソリューションの提供にも挑戦。グループ会社は国内58社、海外94社。

研修内容

2011年から新人海外派遣研修の導入を始め、11年と12年は中国とインド、13年は中国、インドとインドネシアの3カ国、14年からはベトナムを加えた4カ国で実施。例年、グループ内の中核企業の新入社員を含む約100名が参加。入社後2週間は、ビジネスのマナー・基礎や理念・事業内容などを学ぶ国内研修に参加し、4月後半から現地滞在約7~10日間(年によって異なる)の海外派遣研修に参加する。研修先は、グループ企業が進出し、拠点として力を入れている重要なマーケット。現地でサバイバル体験もしてほしいとの思いから、新興国で実施している。約100名が4カ国に分かれ、大学の寮などに宿泊し、5名程度のグループで活動する。現地のビジネスパーソンとのディスカッション、現地企業や帝人グループ企業への会社訪問、現地の一般人の声を聞くフィールドワークなどが組み込まれ、最終日には現地で見聞きした情報をもとに、現地ニーズと帝人の事業領域を組み合わせたビジネスの提案を行い、優勝グループを決定する。その国での優勝グループは、帰国後に各国の優勝グループ発表会で発表できる。

 

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インドでの研修をサポートしてくれ、仲良くなった大学生フェローとの1枚。

 

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2014年のインドでの研修風景。現地企業を訪問した。

 

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2015年のベトナム研修。フィールドワークでは一般人に課題に関するリサーチを行った。

 

体験者インタビュー

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PROFILE
北島雄太(きたじま・ゆうた)●帝人デュポンフィルム株式会社企画管理部。慶應義塾大学経済学部卒業。2012年4月入社。世界に誇れる技術を持っている素材メーカーを中心に就職活動し、帝人の炭素繊維に将来性を感じて入社を決意。入社後3年間、東京と大阪の経理部で原価管理を担当。15年5月より、現部署にて、経営層向けの事業データを集計する管理会計などに携わる。入社時のTOEIC(R)Testは830点。

私は、15名でインド研修に参加。学生時代に東南アジアやヨーロッパ、アメリカや南米は回りましたが、インドは初めて。荒涼とした地に高層ビルがそびえ、道路を豚や牛が行き交うカオスな光景に圧倒されました。5人のグループの中では英語はできる方でしたが、インド人の英語はアクセントが独特。ビジネス英語の知識もなかったので、最初はコミュニケーションに苦労しました。助かったのは、研修にアテンドしてくれた現地の大学生フェローの存在。わからない英語は、あとで彼らに聞いて補いました。

 

私たちは、発表テーマを「インドへのオートメーション(機械による自動化)導入ビジネス」に決定。会社訪問では、日本の自動車メーカーの現地法人とインドの太陽光発電設備メーカーを訪れ、安い労働力確保の難しさ、人力に頼る製品品質の不安定さ、人事管理の難しさなど、テーマに役立つ話をたくさん聞くことができました。

 

ビジネスパーソンとのディスカッションでは、大学教授からロジカルシンキングを学び、大学生フェローにも助けてもらって、何とか発表テーマをまとめることができました。彼らとは年齢も近かったので仲良くなり、今でもSNSで連絡を取り合っています。

 

帝人インディア社員との会食では、インド人社員のマネジメントや市場開拓の苦労など、日本人駐在員として働く厳しさを知りました。一方で、帝人に愛着を持って働いているインド人社員の話なども聞くことができ、海外で認められている企業であることもわかり、海外で働くやりがいも予感できましたね。「インドなんてイヤだ」と嘆いていた同期が、帰国後には「海外転勤もいいな」に変化。私自身も、今では海外で働くことが具体的な目標になっています。

 

学生の皆さんは、卒論に真面目に取り組むなどして、ロジカルに考える訓練をしておくと役に立つと思います。あとは、学生時代にしかできないことをやっておくこと。私は、1カ月単位のバックパッカー旅行を3回経験したせいか、海外に抵抗がありませんし、仕事先の国のイメージがなんとなくつかめるのもメリットです。

 

人事インタビュー

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PROFILE
久保田はる菜(くぼた・はるな)●人事総務部組織・キャリア開発グループ兼採用・人材開発グループ兼改善活動全社事務局。2006年4月入社。大阪本社で人事制度の企画を2年、岩国事業所(山口県)で工場の業務管理と教育、人事考課を2年経験し、10年より現部署。12年から14年まで新人海外派遣研修の同行を経験。現在は、社員が自主的にキャリアを考えられる仕組みづくり、グループ同士が連携できる仕組みづくりに携わる。

入社後早い段階で「グローバルに活躍したい」という意識づけを行うことが、新入社員の海外派遣研修の目的です。そのために、ビジネスパーソンとのディスカッションでは、グローバルに活躍する人たちの想い・働き方に触れ、会社訪問では、現地企業と日本企業との共通点や相違点なども肌で感じてもらいます。

 

現地で街頭インタビューなどを行うフィールドワークでは、現地の人たちがどんなことを大事にしていて、何を求めているのかニーズを探り、「帝人の事業内容と組み合わせて、どんなビジネスができるか」を、グループごとに提案することが最終課題です。与えられたプログラムをこなすのではなく、インターネットでは得られない生の情報を自分たちで収集するなど、現地でしかできない体験をたくさんしてほしいと考えています。

 

実際には一概には言えないのですが、グループ企業にはIT系もあれば商社系もあるので業種によってカラーが異なっていると感じたり、文系と理系で考え方が異なっていると感じたり、グループ内で意見が衝突することは少なくありません。こうした壁にぶつかりながら、わずか5人でも多様性があることに気づき、相手を認め、協調していくことを学んでいると思います。

 

現地では大学の学生寮などに宿泊するので、最初は「こんなところに寝泊まりするの!?」という不安と戸惑いが。見慣れない虫や停電に悩まされたり、インドネシアでは渋滞に巻き込まれることも。それでも、渋滞を見越して早めに行動したり、逆に先方が送れることも許容するなど、現地の環境に素早く順応して活動しています。こうした経験に鍛えられ、目標をやり遂げたことも自信となって、帰国すると頼もしく見えますし、海外で仕事をする実感が湧いて、海外勤務に対して積極的に考えられるようになっているようです。

 

語学やビジネスの考え方は、入社後でも勉強できます。それよりも、学生のうちに環境の変化に順応する力や、バックグラウンドの異なる人と協調していく力を身につけておくことをお勧めします。そのためには、同じ価値観を持つ学生同士の付き合いだけでなく、いろいろな環境に身を置いてさまざまなことを経験し、自分の許容範囲を広げておくといいですね。

 

取材・文/笠井貞子 撮影/鈴木慶子

eコマース編

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市場は順調に拡大。さまざまな手法で消費者に購買を促す「オムニチャネル」に注目しよう

eコマース(Electronic Commerce。電子商取引ともいう)とは、インターネットなどの通信技術を活用し、コンピュータシステムを介して商取引を行うこと。企業間の取引を指す「BtoB(Business-to-Businessの略。B2Bと表記することもある)型」、消費者が企業から商品を購入する「BtoC(Business-to-Consumer。B2Cと表記することも)型」、消費者同士で取引する「CtoC(Consumer-to-Consumer。C2Cと表記することも)型」に大別できる。また、インターネットを通じて商品を購入できるサイトを「ECサイト」と呼ぶ。

 

経済産業省の「平成26年度我が国情報経済社会における基盤整備(電子商取引に関する市場調査)」によると、2014年におけるBtoC型サービスの市場規模は約12.8兆円。13年(約11.2兆円)に比べ14.6パーセント、10年(約7.8兆円)に比べると64.3パーセント増となった。また、BtoC型eコマース市場の規模を、全商取引の市場規模で割った「EC化率」は、14年時点で4.37パーセント。前年(3.85パーセント)より0.52ポイント増えており、インターネットを通じてモノを買う行為は、一般消費者の間で順調に広まっている。なお、内訳をみると、食品・家電・アパレルなどの物販系分野が約6.8兆円、旅行予約やチケット手配などのサービス分野が約4.5兆円、オンラインゲームや電子書籍などのデジタル分野が約1.5兆円となっている。

 

総合系ECサイトとしては、楽天市場、Amazon.co.jp、Yahoo!ショッピングが「3強」と呼ばれている。一方、アパレル販売に特化したZOZOTOWN、健康食品・医薬品などを手がけるケンコーコム、家電に強いヨドバシ.com、オフィス用品中心のアスクル、有機野菜の宅配を行うらでぃっしゅぼーやなど、特定分野の物販で大きな存在感を放つサイトもある。また、サービス分野ではじゃらん、楽天トラベルや一休.comといった旅行系サイトも、よく知られた存在だ。この業界で大切なのは、品揃えの良さ。魅力的な商品をたくさん用意すれば、多くの顧客を集めることができる。その結果、売り上げが伸びてさらに品揃えを強化できるという「正のスパイラル」が実現できるのだ。そこで各社は、商品ラインナップの拡充に向け努力を重ねている。

 

このところクローズアップされているのが、「オムニチャネル」というキーワードだ。「オムニ(omni)」とは、「すべての」「あらゆる」という意味を持つ言葉。商品を購入させるため、実店舗、ダイレクトメール、カタログ、チラシといった「リアル」な手段と、Webサイト、SNS、マスメディアなどの「バーチャル」な手段とを連携させ、さまざまなチャネルを通じて消費者に接触していく考え方を指す。例えばセブン&アイ・ホールディングスでは、グループのECサイトで購入した商品を、セブン-イレブンの店頭で受け取れる仕組みを提供。また、「無印良品」を運営する良品計画は、実店舗、ECサイト、SNSなどを連携させる取り組みを推進中。スマホアプリ「MUJI passport」を開発し、店舗とECサイトで共通して使えるポイント制度を整えたり、Webでのクチコミ投稿や店舗への立ち寄り(チェックイン)によってポイントが貯まる仕組みを作ったりして、店舗とECサイトの双方で集客力アップを目指している。

 

CtoC型市場の拡大も見逃せないポイント。Yahoo! JAPANのオークションサービス「ヤフオク!」など、消費者間の取引を支える仕組みは以前から存在していた。しかし近年、消費者同士がより気軽に取引できる「フリマアプリ」(下記キーワード参照)が登場し、注目を集めている。例えばメルカリが提供するフリマアプリ「メルカリ」は、スマートフォンの写真機能を使って簡単に出品できるなど、直感的でわかりやすい使い勝手で人気だ。また、ファブリックが提供する「フリル」なども利用者を増やしている。さらに、LINEが「LINE MALL」、楽天が「ラクマ」でフリマアプリ市場に参入するなど、大手企業の動きも活発だ。今後、さらに市場拡大の可能性があるため、関連ニュースをチェックしておきたい。

 

eコマース業界志望者が知っておきたいキーワード

フリマアプリ
インターネット上で、フリーマーケットのように個人間で商品取引できるアプリのこと。入札によって商品価格が変動するオークションに対し、フリマアプリでは出品者が自分で設定した価格で販売される。フリマアプリを提供する事業者は、取引の決済代行を行うことで手数料を得るのが一般的。
O2O
Online to Offlineの略。OtoO、あるいはOn2Offと表記することもある。ネット上の働きかけにより、リアル店舗の購買活動を活発化させること。インターネット経由で割引クーポンを発行して来店客増加につなげる、スマホアプリで店舗にチェックインするとポイントが提供されるなどの仕組みが代表格。
越境EC
消費者が、居住している国以外から商品を購入するeコマースのこと。ここ数年、訪日外国人が増えていることを受け、外国人が日本旅行中に関心を持った商品を、帰国後に日本のECサイトで購入する動きが盛んになるのではないかと期待されている。
「モール型」と「直販型」
ECサイトは、楽天市場のように複数のショップを集めて出店者から手数料を得る「モール型」と、Amazon.co.jp、あるいは家電量販店や百貨店の直販サイトに代表される「直販型」とに分類することもできる。

このニュースだけは要チェック <リアルとバーチャルを組み合わせたサービスが拡大>

・セブン&アイ・ホールディングスが、西武、そごう、イトーヨカドー、ロフト 、赤ちゃん本舗などの商品をインターネットで購入し、近くのセブン-イレブンで受け取れるサービス「omni7」を開始。全国の約1万8000店舗で、24時間受け取り可能という利便性を訴求している。(2015年11月1日)

 

・2013年7月にリリースされたフリマアプリ「メルカリ」が、サービス開始から2年で1600万ダウンロードを突破したと発表。なお、このアプリはサービス開始後1年半で1000万ダウンロードを達成しており、利用者は着実なペースで増えている。(2015年7月2日)

この業界とも深いつながりが <「オムニチャネル」でコンビニとの協力が増えるか?>

ポータルサイト・SNS
SNSや比較サイトの口コミ情報が、eコマースのきっかけになることは多い

家電量販店
ヨドバシ.comなどが品揃えを拡充し、総合ECサイトの一角に食い込もうとしている

コンビニ
ECサイトで買った品物をコンビニで受け取れるなど、連携の動きが活発

 

この業界の指南役

日本総合研究所 シニアマネジャー 吉田賢哉氏

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東京工業大学大学院社会理工学研究科修士課程修了。専門は、新規事業戦略やマーケティング戦略、企業のビジョンづくり・組織戦略など。製造・情報通信分野などの業界動向調査や商品需要予測も手がける。

 

取材・文/白谷輝英 イラスト/坂谷はるか


【マレーシア編】年功序列のしがらみがないマレーシアの会社

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Reported by りん
マレーシアにある日系メーカーの現地法人に勤務。現地での楽しみは、マレーシア国内ならびに周辺のアジア諸国への旅行やゴルフ、ダイビングなど。

20代でプロジェクトリーダーを任される

はじめまして。りんです。マレーシアにある日系メーカーの現地法人に勤務しています。

 

職場の同僚は、華僑(中国系)が90パーセント、マレー系マレーシア人が8パーセント、インド系マレーシア人が2パーセントという構成です。取引先は、華僑80パーセント、マレー系マレーシア人13パーセント、日本人5パーセント、インド系マレーシア人2パーセントとなります。マレーシアはもともと多民族国家で、国民は、マレー系マレーシア人、華僑、インド系マレーシア人の順に多いので、私の職場環境には、いかに華僑が多いかがおわかりかと思います。

 

仕事で使う言語は、英語です。同じ民族同士で話すときは、各民族ごとに中国語やマレー語になる場合もありますが、ビジネスシーンでは基本的には英語を使うことが常となっています。

 

これはもしかするとマレーシア全体というよりも当社だけの特徴かもしれませんが、年功序列によるしがらみが少ないことにも驚きました。もちろん役職に応じた階層はありますが、あくまでも実力の世界なので、上司をはじめとした上の職級の方々は、ほとんどが能力が高くて心から尊敬できる方ばかり。加えて、20代でプロジェクトリーダーを任されることも少なくないため、その若さでも社長や副社長といったマネジメント層との距離が圧倒的に近く、トップの存在を身近に感じながら仕事ができるのです。例えば、月例ミーティングやプロジェクトの進捗確認のためのミーティングでは、20代の社員が、社長や副社長と直接やりとりする場面もあるほど。経営層の考え方、物事の進め方を若いうちから目の当たりにして、実際に体験できるので、私自身も成長できている自覚があります。

 

加えて、彼らはとても「open minded」だと思います。日本語で言うと、考え方が柔軟で偏見がなく、新しいものや考え方を受け入れやすい、といったところでしょうか。また、彼らと仕事をする際は、必ず自分の意見を求められます。言われた仕事をやる「やらされ仕事」ではなく、自分で切り開いていく仕事をする必要があるのです。日本の企業には「若手を教育する」という文化がまだ残っていて、後輩社員が困っていたら、先輩社員が手を差し伸べて、ヒントをくれたり、助けてくれたりすることも少なくないと思いますが、こちらでは、皆、自分のことで手いっぱい。自分の仕事は、自分で計画を立て、自分で動かないと先に進みません。“まずは深く自分で考え、自分なりの意見を述べて、進め方の合意をとる“の繰り返しで仕事を進めていくようになりました。反対意見に対しても説得できるように準備をするようにもなりましたね。

 

感謝の言葉をその都度伝える

彼らと一緒に仕事をする上で気をつけているのは、価値観やバックグラウンドなどがその人ごとに異なることを前提として、その人ならではの性格、やり方を意識しながら対応をすること。仮に相手が部下だとしても、彼らが個々の仕事をしてくれることによって自分のプロジェクトが成り立っていることに対する感謝の気持ちを、その都度、話し言葉やメールで常に伝えるようにしています。赴任してきたばかりのころは、「私一人じゃ何もできなかったわ」と言ったり、最近は「○○してくれてありがとう!」とお礼を言ったり。

 

加えて、マレーシアの職場は、役割分担がはっきりしていて、オフィスの掃除だけを請け負う人もいれば、お茶くみだけを任されている人もいます。そういった仕事をやってくれる人がいるからこそ、仕事は回るのだと私は思っています。そこで、そうした人たちにもなるべくその都度、「ありがとう」と言うようにしています。なかなかお礼を言われることなど少ないらしく、びっくりする人もいるようです。

 

部下には、たまにカジュアルなランチをごちそうしたり、自分で作ったものをふるまったりして、仕事以外のコミュニケーションもとるようにしています。例えば、プロジェクトや何かの作業が一段落したときなどは、5~6人を誘って、日本食レストランで和食をごちそうします。年に1~2回は、20人くらいを自宅に招いて、手巻き寿司パーティーをやったり、日本式のカレーをふるまったりもします。私が住むコンドミニアムには、共用施設としてキッチン付きパーティールームがあるので、多少、人数が多くても大丈夫なのです。

 

毎日の職場環境を気持ちの良いものにしたいので、一緒に働く人たちがどういうふうにモチベーションを持って仕事をしてくれるか、相手をよく観察し、日々の会話を通じて理解することも心がけています。例えば、華僑の人たちは、昇給や昇進がモチベーションになるようなので、予算に余裕があるときは、海外の出張に同伴させてあげるなど、新しいことを経験させてあげることで、彼らの上昇志向を満足させています。マレー系マレーシア人には、現状に満足して「このままが心地良い」という人が多いように思えるので、楽しく働いてもらえるように、チームで働く楽しさや、やりがいを感じてもらえるように心がけていますね。

 

次回は、多民族国家マレーシアについてお話しします。

 

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ペナン州のジョージタウンにある「チョンファッツィマンション」。プラナカン様式の邸宅であり、「ブルーマンション」とも呼ばれる。

 

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同じくペナン州のプラナカンマンション。「プラナカン」とは、15世紀後半からマレーシアやシンガポールにやってきた中国系移民の子孫のこと。彼らが現地の女性と結婚したことによって、中国やマレーの文化とヨーロッパの文化をミックスさせた、独自の生活スタイルが生まれた。

 

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マレーシアの首都クアラルンプールにある超高層ビル「ペトロナスツインタワー」。マレーシアの国立石油会社ペトロナスによって建築された。

 

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同僚たちとのやりとりに使っているSNS「WhatsApp」。「明日、朝ごはん買ってくるつもりだけど、もし欲しかったら絵文字で教えて」と声をかけた同僚に、次々に「買って来て」と頼む様子がわかる。

 

構成/日笠由紀

アパレル内定 甲南女子大学 岡本莉奈さん

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就活データ
志望業界:アパレル 説明会参加:33社(うち合同企業説明会6回) 先輩訪問:なし エントリーシート提出:18社 面接:5社 内定:1社 活動費用:合計約5万8000円(交通費2万円、スーツなど洋服代2万円、書籍代5000円、外食費1万円、筆記具など雑費3000円。東京に一度だけ行ったものの、深夜バスを利用。会社説明会や面接で、1日に複数の予定がある時は、カフェで就活ノート整理などの作業をした。グループワークで仲良くなった友人とランチをすることも多く、飲食費がかかった)

決まるだろうと思っていた企業の最終面接で不合格に

ゆとりを持って就活を進めたいと、大学3年12月から開始。12月、2月に行われた合同企業説明会では、ハウスメーカーや旅行会社、IT、メーカーなど、業界にこだわらず回りました。個別の会社説明会でも、インテリアやIT、アパレル、ペット用品など幅広く企業をチェック。事業紹介、募集人数や勤務地など募集概要などの説明が多く、具体的な志望業界を決めるには至りませんでした。

 

ただ、IT業界は会社説明会ののち、グループ面談やSPIテストへと進んでいったんです。人事の方と話すうちに、ITといっても技術職や営業などさまざまな職種があると知りました。また、入社まで配属がわからないと言われたんです。もちろん、勤務地もはっきりしません。それを聞き、ほかの業界ももっと見てみたいと思ったんです。また、父がアパレルバイヤーを、母も服飾を学んでいたこともあり、アパレル業界を詳しく見てみることにしました。

 

4月下旬、ファッションの小売や製造、生地製造などアパレル業界限定の合同企業説明会へ。さらに、レディス靴専門の小売店で社長が登場されるトップセミナーがあると聞き、参加。その企業では、グループディスカッションを経て面接へと進みました。

 

説明会でアパレル販売の話を聞くことで、仕事内容に魅力を感じたんです。というのも、野球場の売店でアルバイトをしていたのですが、売店での接客は質よりも数をさばく感じ。それに比べアパレル販売は、お客さまに応じて接客を変えたり、販売スタッフ自身の魅力でお客さまから選ばれるなど質を重視していることに感動しました。

 

また、小さいころから洋服が大好きで、ブランドにこだわらず友達に似合う服をオススメしたり、コーディネートのアドバイスをしたり。友人からも「接客に向いているんじゃない?」と言われたんです。また、母の身体が弱いこともあり、関西での勤務を希望していたのですが、アパレル販売は勤務エリアを限定している企業もあり、それも魅力でした。

 

そして、志望業界をアパレルに決めて活動。5月からは面接が始まりました。セミナーで社長の話を聞いた小売業では、最終面接へ。質疑応答のあと、面接担当者3人の履歴書を渡され、それに対して質問する時間があったんです。事前に、そのような時間を設けるという説明があったので質問項目を考えていきました。今後の事業拡大、どういう後輩が欲しいか、男性でなぜレディス靴の会社なのか、など。質問を通じて会社への興味をアピールしようと思いました。

 

面接担当者の反応も良かったし、十分アピールできたので、この会社で決まるだろうと思いました。忙しく疲れもたまっていたので、アパレルブランドの面接だけは行き、就活をペースダウン。すると、6月初旬に不合格の連絡がきたんです。精神的につらくなり、しばらく就活を休むことにしました。

 

アパレル5社に絞って就活を再スタート。自分の目で見て志望動機を固める

選考が続いている企業がほとんどなく、大学4年7月から再び、会社説明会に参加。アパレルで勤務地が関西と限定すると、ほとんど説明会は終了していました。あせりながらも、古着などのセレクトショップ、女性服ブランドなどの会社説明会に参加。説明会当日に筆記や面接まで行う会社もありましたね。そして、5社に応募、2社で選考が進みました。

 

現在の内定先は、会社説明会の日に筆記も面接もありました。そして、1カ月後に最終面接。これまで使用したことのないブランドだったので、最終面接までに実際に店舗に行き、商品構成や店舗の様子、スタッフの雰囲気などを自分の目で見たんです。品質が高くデザインも洗練されているし、実際に見たことでそのブランドに憧れました。

 

最終面接の前日。会社説明会で聞いた「販売個々人が成長することで会社も成長する」というメッセージに感動したこと、店舗を訪問した時に販売スタッフの方が程よい距離感で接客してくれたことなどを振り返りました。その気持ちを志望動機として伝えようと思ったんです。それで不合格だったら、秋採用でアパレル以外に応募の枠を広げればいいかなと。

 

そして、8月中旬に最終面接。志望動機や店舗を見た感想、自分が販売職に向いていると思う理由などを質問されました。落ちた会社も含め就活の現状についても聞かれ、さらに面接のあと、A4判1枚の用紙に志望動機をまとめた作文を提出。後日、内定の連絡をいただき、就活を終えることができました。

 

今考えても、就活の途中で気を抜いてしまったことはものすごく反省しています。もっと勢力的に説明会などを活用し、幅広い企業に触れるべきだったと。インターンシップにも参加していれば、より詳しく業界を知ることができたはず。私の場合、就活当初はITを志望していましたが、インターンシップでITに行っていれば、ITに時間をかけることもなかったと思います。

 

現在はすでに、インターンシップとして店舗での接客が始まっています。大好きな洋服に囲まれ、お客さまとの会話を楽しみながら自分自身を成長させていきたいと思います。

 

低学年のときに注力していたことは?

1年生で資格サポートセンターという講義があり、秘書技能検定2級やマイクロソフト オフィス スペシャリスト(Word、Excel、PowerPointなどのスキルを証明する資格)などを取得。アルバイトはドーム球場の売店に勤務。多くの方と触れ合う中、医薬品メーカーや電鉄、銀行などさまざまな職業に就く常連の方とも交流できました。さらに、夏はマリンスポーツ、冬はスノーボードなどをするアウトドアのサークルでも活動していましたね。

 

就活スケジュール

大学3年12~2月
合同企業説明会に参加
特定の業界にこだわらず、ハウスメーカーや旅行会社、IT、メーカーなど幅広く回る。
大学4年4月
個社説明会に参加
個別の会社説明会でも業界を絞らず、インテリアやIT、アパレル、ペット用品などさまざまな会社へ。アパレル業界限定の合同企業説明会にも参加。
大学4年5月
アパレル業界の面接を受ける
志望業界をアパレルに決める。靴の小売業で最終面接に進み、この会社で決まるだろうと就活をペースダウンする。
大学4年6月
応募企業がなくなり、しばらく就活を休む
6月初旬に不合格通知が来る。ショックを受け、いったん就活から離れようとしばらく休憩する。
大学4年7月
再び会社説明会に参加
応募企業がほとんどなくなったので再び、会社説明会に参加。アパレルで関西勤務に限定すると説明会が終了していることも多かったけれど、5社に応募、2社で面接を受ける。
大学4年8月
現在の内定先に決まり就活を終える
最終面接の前に、現在の内定先の店舗を見に行く。中旬に最終面接。志望動機や店舗を見た感想などの質疑応答。面接のあとに志望動機についての作文も。数日後に内定をもらい、就活を終了する。

 

就活ファッション

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黒のプレーンなスーツで、ボトムはスカートタイプのもの。シャツは白のスキッパータイプを合わせた。靴はつま先が丸くて、ヒールが低めの、長時間履いても足が痛くならないものを選んだ。アパレルの場合は、面接は自分らしい服装で、というリクエストがあり、いつも悩んだ。カジュアルにもフォーマルにも見える黒のガウチョパンツをベースに、ブラウスなどを合わせるようにした。

 

取材・文/森下裕美子 撮影/島並ヒロミ

TDK株式会社

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企業PROFILE
電子材料、電子デバイス、電子部品のメーカー。海外売上高比率91パーセント、海外生産比率88パーセントというグローバル企業で、世界30以上の国や地域に、工場・研究所・営業所など100カ所以上の拠点を展開。日本、アジア、ヨーロッパ、アメリカと各地域・事業分野の優位性を生かした、ワールドワイドな研究開発体制を整えている。スマートフォンなどの身近な電子部品だけでなく、スマートハウスなどの社会インフラの実現にも貢献している。

研修内容

4月1日から約1カ月間の新入社員研修がスタート。1か月間の合宿研修の一環として行われるモノづくり講座は、2001年から導入。「世界一○○な竹とんぼ」をコンセプトに、3秒以上滞空する竹とんぼをつくる。3名が1チームとなり、山から切り出された竹筒を仮想マネーで購入し、竹とんぼの羽を削り出すところから取り組む。予算制限はなく、かかった原価から販売価格を設定し、研修内の仮想販売会で利益を出すことがポイント。講座は、(1)講座の目的や進め方についてのオリエンテーション (2)新製品開発のステップを学び、概要をまとめた計画シートと新製品開発計画書を作成。試作品の製作にとりかかる (3)工程管理表を作成し、設計審査を受ける (4)工程管理表に基づいて2台を量産し、製造原価を算出。収支計画書を作成する (5)計3回のトライで3秒以上滞空するかどうかの出荷検査を行い、研修参加者や教育担当者にプレゼン。製品を展示販売し、利益を確定させ、成績発表するという全5回。実作業に取り組むのは、毎日の研修プログラム終了後の自由時間。講座で提出する計画シート、新製品開発計画書、工程管理表などの書類は、実務と同じものを使用する。

 

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モノづくり講座で竹とんぼづくりに取り組む新入社員たち。

 

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参加者全員の前で、3秒以上滞空するかどうかの出荷検査を行う。

 

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シャボン玉が出る竹とんぼを製作し、見事優勝した辛嶋さん(写真左)チーム。辛嶋さんが手にしているのが、優勝チームの竹トンボ。

 

体験者インタビュー

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PROFILE
辛嶋伸彦(からしま・のぶひこ)●技術本部材料開発センター。首都大学東京大学院都市環境科学研究科修了。2012年4月入社。携帯電話や車など、生活に身近な製品に幅広く使われている電子部品メーカーに魅力を感じ、子どものころからMDやCD-Rなどでなじみの深かった現社への入社を決意。入社以来、コンデンサの製造プロセスの開発を担当している。

私のチームは、文系1名、理系2名の3人。コンセプト決めが肝心なので、1週間ぐらいかけて案を出し合い、「世界一ワクワクする」をコンセプトに、シャボン玉を吹き出しながら飛ぶ竹とんぼをつくることにしました。文系のメンバーから出てくるいろいろなアイデアを、もう一人のメンバーが具体的に絵にしてくれたので、スムーズにイメージを共有できて助かりました。私は、主に手を動かしてモノをつくる担当。自然に役割分担できたので、うまく連携できましたね。

 

当初は、プロペラの回転時に発生する風力でシャボン玉が吹き出すイメージで試作したのですが、風が強すぎてどうもうまくいかない。試行錯誤を重ね、結局、発射台から竹とんぼが飛び立つときに起こる風力を利用し、発射台からシャボン玉が噴き出す構造に変更しました。

 

プレゼンは、どんな展開にすればワクワク感が伝わるかを意識してスライドを用意。売れ行きも上々だったので、優勝することができました。「世界一○○な」を実際につくる難しさを痛感しましたが、優勝できてうれしかったですね。

 

配属後は、研究開発担当としてモノづくりに携わっています。開発に携わりながらも、その先にあるお客さまや利益などを意識できているのは、モノづくり講座を通して事業プロセスを知ることができたおかげです。また、研修で抽象的なアイデアを具体化していたメンバーを見て、相手の言うことを正しく理解する力の重要性を実感しました。リーダーの意図がきちんと理解できないとチームとしての開発業務はうまくいかないので、わからないことはきちんと聞いて進めるよう心がけています。

 

学生の皆さんは、外に目を向けて視野を広げておくと、社会に出てから自分の財産になると思います。同じ新入社員研修の中に「私の挑戦」という課題もあり、私は内定期間中に中小企業で働く5人の技術者インタビューを行いました。最初は、「断られたらイヤだな」と腰が引けましたが、思いのほか快く受けてもらえましたね。思い切ってぶつかってみると実現できるものですし、中小企業技術者の志の高さがわかり、自分の視野が広がりました。

 

人事インタビュー

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PROFILE
谷口滋彦(たにぐち・しげひこ)●戦略本部人事教育グループ人財開発部人財育成課。2011年4月に入社し、秋田総務部に配属。秋田県内の工場での半年間の製造実習を経て、給与業務を担当。13年、テクニカルセンター(千葉県)に異動し、全社の給与業務に従事。15年7月からは、現部署にて新入社員教育など、教育研修の企画・運用に携わる。昨日できなかったことが今日はできるように、常に向上することを意識しながら日々の仕事に取り組んでいる。

この研修の目的は、事業プロセスの全容を理解すること。竹とんぼづくりを通して、商品企画、設計、原材料の調達、試作、原価計算、量産、品質管理、プレゼン、販売、利益確定という一連の流れを疑似体験することができます。また、「世界一○○な竹とんぼ」を考える過程で、お客さま視点の考え方を意識させる狙いもあります。

 

計画シートではコンセプトと概要をまとめ、新製品開発計画書では、自分たちの製品の市場規模、目標価格、競合品の有無などを調査。設計図に基づいて試作品をつくり、製造者への指示書となる工程管理表を作成します。材料費だけでなく量産にかかった人件費も原価に計上。自分たちで売価を決めて販売し、利益を出すというビジネスの基本も体験することができます。

 

出荷検査では、どのチームの竹とんぼも3秒以上飛ぶように全員で応援。自分のチームの成功だけでなく、他のチームの成功も自分のことのように喜んでいる姿が印象的です。出荷検査で数チームが脱落し、合格チームだけがプレゼンと販売会に参加。各チームのプレゼンを聞いたのち、研修参加者や関係者が気に入った竹とんぼを仮想マネーで購入します。成績は、品質保証グループの審査による工程管理表の精度、参加者の挙手によるプレゼンのアピール度、利益率で総合評価され、優勝チームが決定します。

 

モノづくりの疑似体験を通して、仕事の進め方を学び、管理の視点を養うだけでなく、自分たちで発案した「世界一○○な」を実現させることで、自主性も養われます。苦労を分かち合うことでチームワークも身につきますし、自分の役割や自分の得意なことも見えてくるので、その後の実務にスムーズに入っていけるようです。

 

学生時代は現状に甘んじてしまいがちですが、新しいことや、今より1段階上のレベルに挑戦する気持ちで行動してほしいと思います。社会で求められるのは、自分でゴールを定め、道筋を考えていける自律型人財。大学での研究やアルバイトでも、ゴールを定めて取り組むことで、自主性を養うことができるはず。あとは、いろんな人に会って新しい考え方を知り、刺激を受けることも大切ですね。

 

取材・文/笠井貞子 撮影/鈴木慶子

先輩たちに聞きました。いつごろからキャリアについて考え始めた?

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自分のキャリア(生き方・仕事)について、いつごろから考え始めましたか?

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大学4年生~大学院2年生に、いつごろから自分のキャリア(生き方や仕事)について考え始めたかを尋ねたところ、一番多かったのが「大学3年」で約3割。「大学4年」が3割弱で続き、その次に多いのは「大学入学前」の16.9%という結果になった。属性別では、男子学生よりも女子学生の方が、考え始めるのが早い傾向が見られ、男子学生は女子学生と比べて「大学4年」と「それ以降」に、女子学生は男子学生と比べて「大学入学前」と「大学3年」に厚みが出る結果となった。文系学生と理系学生とでは、文系学生よりも理系学生の方が、考え始めるのが早い傾向が見られ、理系学生は「大学入学前」の割合が多く、文系学生は「大学2年」「大学3年」の割合が多い傾向が見られた。

 

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資格の予備校に通い、勉強を始めた。(大学入学前に考え始めた・大学院国際社会科学府1年・男子学生)

 

大学のキャリアデザインの授業をとった。(大学1年のときに考え始めた・薬学部4年・女子学生)

 

財務会計を学ぶゼミに入ったり、簿記の資格の勉強をした。(大学2年のときに考え始めた・経済学部4年・女子学生)

 

キャリアセンターのガイダンスや就活のイベントに積極的に参加した。(大学3年のときに考え始めた・大学院理工学研究科2年・男子学生)

 

自分がどんな人間であるかを理解するために、日記をつけるようにしました。その結果、自分が楽しいと感じること、好きなことが明確になりました。自分の興味のある仕事がテレビで取り上げられることも多かったので、その番組は逃さず録画し、数回繰り返して見たりしていました。(大学3年のときに考え始めた・生物理工学部4年・女子学生)

 

経済雑誌を読んで社会人のイメージを膨らませた。(大学4年のときに考え始めた・法学部4年・男子学生)

 

合同企業説明会に参加して、社会人育成講座を受講し、実際に役職者の方の話を聞いたりした。おかげで、数年後のキャリアビジョンを描くことができ、社会人としての目標が見つかった。(大学4年のときに考え始めた・経済学部4年・男子学生)

 

保育の仕事に就くことが目標だったので、近所の保育所にボランティアに行ったり、現場での実習に力を入れてきました。(大学3年のときに考え始めた・人間科学部4年・女子学生)

 

できるかぎり企業について調べたり、説明会に積極的に参加したりした。(大学3年のときに考え始めた・大学院工学系研究科2年生・男子学生)

 

インターンシップに参加して、具体的な仕事の内容を把握するようにした。自分が何をやりたいかがはっきりしてきて役立った。(大学入学前に考え始めた・大学院工学系研究科1年・男子学生)

 

学園祭実行委員を経験し、学内外の多くの人とコミュニケーションするように心がけた。大学のキャリアセンターにも頻繁に通い、多くの職員と仲良くなって行政主催のイベントにも参加した。(大学2年のときに考え始めた・人文学部4年・女子学生)

 

大学のオープンキャンパスに積極的に参加し、講師の方々の考え方をよく聞いた上で、自分のキャリアをより良い方向に導いてくれそうな大学を選んだ。(大学入学前に考え始めた・大学院医学研究科2年・男子学生)

 

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だいたい6割の先輩が、大学4年生になる前からキャリアについて考え始めているんだね。先輩たちのリアルボイスを見ていると、インターンシップ参加や資格取得、自己分析やキャリア系の講義を取るなど、早い段階から始められるアクションも、いろいろあることがわかってきたよ。インターンシップなら、リクナビ2017のインターンシップページからすぐにでもエントリーできるから、キャリアについて考え始めるきっかけとして試してみてもいいかもね!

 

文/日笠由紀 イラスト/中根ゆたか

損害保険会社内定 学習院大学 長江葉子さん

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就活データ
志望業界:広告、IT、金融 説明会参加:32社(うち合同企業説明会2回) 先輩訪問:3人(金融2人、広告1人) エントリーシート提出:50社(うちOpenES3社) 面接:20社 内定:3社(金融1社、広告1社、IT1社) 活動費用:約11万5000円(交通費3万円、スーツ・靴・カバンなど3万円、外食費2万円、書籍代1万円、証明写真2万円、郵送代など雑費5000円。続けてある説明会や面接の会場が近い場合は、なるべく徒歩で移動。空き時間は、公園で自分で作ったお弁当などを食べることで外食費を節約した)

2度目の就活は反省を生かし、自己分析を綿密に

私はほかの人より1年多く大学に在籍し、2度の就活を経験しました。1度目の就活は大学3年の12月からスタートし、4年の9月に生命保険会社1社から内々定を頂きました。しかし、体育会の部活動と並行しての就活でうまく身が入らず、自分としては不本意な結果だったんです。いろいろ悩んだ末に、「在学を1年延ばして、部活動を引退してからもう1回集中して就活をしよう」と決断しました。

 

私は大学のアメリカンフットボール部に所属していて、選手のケガの処置やリハビリなどを担当するトレーナーを務めていました。4年の12月に引退して冷静に振り返ってみた時、「これからは支える側ではなく、プレイヤー側でいたい」と思っている自分がいることに気がついたんです。1年目の就活では「ずっと支える側にいた自分は、社会に出ても支える側にいた方がいい」と考えて一般職しか受けていなかったので、この点に気づけたことは大きな進歩でした。

 

引退してからまず力を入れたのは、自己分析です。私は自分の頭だけで考えるよりも、部活の先輩とごはんを食べに行ったりして、そこで自分の今までの経験を人に話すことで思考を整理していきました。人にわかりやすく話そうとすると順序立てて説明する必要があるので、自己分析の大きな手がかりになると思います。また、他人から見た客観的な自分像を聞くことも、自分の強みを見つける上でとても参考になりました。人から聞いた“私の強み”と自分で思っていたものが一致していれば自信になりますし、違っていたら「長所が増えた!」とポジティブに捉えていけばいいんです(笑)。

 

また、話して頭の中で整理したことは、必ず書き残すように習慣づけていましたね。日記のように就活関連で考えたこと、面接で聞かれたこと、言われてうれしかったことなど、毎日ノートにまとめていました。後々ノートを読み返すと「自分はここでつまずくのか」「こういうことで楽しくなるのか」といった、自分の中で一貫している性質が見えてくるので、これも自己分析でとても役に立ちました。

 

自己分析を通して「外に出て、人にかかわる仕事がしたい」という方向性が見えてきたので、志望職種は営業にフォーカス。業界としては、金融の志望度がほかに比べて少し高かったです。先輩や社会人のアドバイスをうかがって、金融業界は「ワークライフバランスが取りやすい仕事」だと感じました。また、金融は形のない商品を取り扱うので、営業の際には自分の知識が頼りになります。理解度を深めることが仕事で武器になる点が、勉強好きな自分の肌に合うと思ったんです。さらに金融の中でも、自分がやっていたトレーナーの仕事と「リスク管理をする」という側面が似ていると感じて、損保の仕事に興味を持つように。自己分析をしっかり掘り下げたおかげで、2度目の就活では「自分のやりたいこと」がどんどん明確になっていきました。

 

面接で聞かれそうな質問はできるだけ想定して、返答は端的に

エントリーシートは部活の先輩に見てもらって、「自分の言いたいことが正確に伝わるかどうか」をチェック。専門的な言葉を使っていてわかりにくかったり、アピールしているポイントが印象に残りにくかったり…人に読んでもらって意見をもらうことで、自分では気づきにくい問題点を修正することができます。1カ月ほどで「自己PR」や「学生時代に頑張ったこと」など、よく聞かれる項目の定型をブラッシュアップ。それらを企業によって少しずつアレンジして使うことで、効率よくエントリーシートを作成していきました。

 

面接では自分で考えられる限りの質問を想定し、それに対する返答を事前に用意して臨みました。落ち着いて話を聞き、質問の意図を正確に汲み取るように意識。例えば、「大学時代は何を頑張っていたの?」と聞かれたら「部活です」と端的に答え、その後長くなり過ぎないようにポイントとなる情報を補足しました。グループ面接の際にはほかの学生の発言にも耳を傾け、「○○さんが言っていたように…」「○○さんとは少し意見が異なりますが…」などと先に出た話を受けて応答すると、面接担当者の心象がグッとよくなると思います。

 

面接が続く時期には、精神的な息抜きも大切です。私は金融業界をメインで受けていたこともあり、会場が大手町や丸の内になることが多かったんですね。そこで、面接が終わった後には、たまに皇居ランニングをしていました。周辺にはランニングステーションが点在しているので、着替えさえ持っていけばすぐに走れます。体を動かすと頭がスッキリするのでお勧めですよ。

 

第1志望は損保の中でも規模が大きく、最も社員の方々の雰囲気が明るく活発だなと感じた会社でした。部活では常にエネルギッシュな選手たちに囲まれていたので、そういった環境の方が自分らしく働けるなと思ったからです。女性で活躍している社員も多く、ロールモデルにしたいと思える方がいることも、非常に魅力的でした。取り繕ったり合わせたりすることなく話して、最終的にこの第1志望の会社から内定を頂けたので、本当にうれしかったです。

 

就職したら、まずは現場で営業の基礎を学びつつ経験を積んで、将来的には世界をまたにかけて活躍できるプレイヤーになれたらと思っています。いつでも日本を飛び出せるようにと、最近英語の勉強も始めました。いつか私も、就活生が目標にしたいと思えるようなキャリアウーマンになりたいです。

 

低学年のときに注力していたことは?

4年間、アメリカンフットボール部のトレーナーをしていました。一般的なマネージャーとは異なり、選手のケガの処置やリハビリ対応が専門のスタッフです。ケガをしてリハビリに回っている選手は、気持ちが落ち込んでいることが多いのですが、私たちは彼らに対して細かく指導をしていかなければなりません。言うことを聞いてもらうには、こちらがちゃんと知識をつけて、普段から信頼関係を築いていく必要があります。その点がとても苦労しました。大変なこともたくさんありましたが、自分がリハビリについた選手が再び試合に出る姿を見られた時には、大きな達成感と喜びを感じましたね。

 

就活スケジュール

大学4年12~3月
自己分析、自己PR添削
前年度の就活を振り返りながら自己分析を深めた。エントリーシートや面接で明確に自己アピールができるように、いくつか自己PRの定型を作ってブラッシュアップした。
大学5年 4〜5月
エントリーシート作成
「志望動機」や「学生時代に頑張ったこと」はいくつか定型を作っていたので、それを会社ごとに少しずつアレンジして記入して、効率よく数をこなしていった。
大学5年 6月
面接開始
金融以外の面接が入り始める。明るく、笑顔は絶やさずに。元気のよさをアピールした。
大学5年 7月
2社から内々定をもらう
広告会社とIT系の会社から内々定をもらう。本命の金融業界の面接はまだスタートしていない会社もあったので、そのまま就活を続行。
大学5年 8月
就活終了
現在の内定先から内々定をもらい、ほかの選考を辞退して就活を終える。

 

就活ファッション

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就活に使用するスーツ、靴、カバンなどには特にこだわりはなく、量販店で一般的なものを一式、なるべく安く買いそろえた。清潔感のある見た目になるように、面接前にはスーツの毛玉をチェックして取るようにして、髪形は前髪を上げて額が見えるようにした。

 

取材・文/西山武志 撮影/鈴木慶子

株式会社毎日放送

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かめい・ひろし●東京支社テレビ編成部。京都大学文学部二十世紀学専修卒業。2010年4月入社。実際に企業を見てみないとわからないと考え、3年生の夏に外資系の消費財メーカーとコンサルティング会社、商社、放送局でインターンシップを体験。マーケティングやアニメに携わる仕事など“自分がやりたいこと”を軸に、インターンシップ先企業を含む8社にエントリー。子どものころから大好きなアニメを担当できる可能性に懸けて、現社への入社を決意。

企画・営業開発として、番組で商品を取り上げてもらえる“面白い見せ方”を発案

大阪市北区に本社を構える毎日放送は、関西では『ちちんぷいぷい』や『痛快!明石家電視台』など、全国ネットでは『情熱大陸』『プレバト!!』『世界の日本人妻は見た!』などの人気番組を提供している。2010年、「アニメの仕事に携われるかもしれない」と期待に胸を膨らませて入社した亀井さんだったが、最初の配属先はテレビ広告の営業。しかも、東京支社。「一度も暮らしたことのない東京で営業…『ウソやん!』というのが、正直な心境でした」

 

テレビ営業部には、番組の提供スポンサーを獲得するタイム営業部と、番組が終わってから次の番組までの間に流れるCMスポンサーを獲得するスポット営業部がある。1年目、亀井さんはタイム営業部の内勤となり、半年後には任された仕事を一人で回せるようになった。

 

「主な業務は社内調整です。外回りの営業担当が獲得してきたスポンサーを、その番組のCMに流しても問題ないかを考査したり、番組内で複数回放送されるCMの順番を考えてローテーション表を作成したり。営業が使用するスポンサーへの説明資料も作成しました」

 

同時にネットワーク業務部の仕事のサポートも担当していた。自社制作の番組を、富山ならTUT、静岡ならSBSなど、各地の系列局に売り込むのが主な仕事。
「先輩に同行し、ローカル局とのリレーションを深め、自社の新番組を売り込んでいくノウハウを勉強しました」

 

2年目にはスポット営業部に異動。スポットCMのスポンサーを獲得するための企画を考えたり、決定した企画を滞りなく運用するための素材集めや管理を行うことが、主な仕事となった。情報バラエティ番組などでスポンサーの商品を取り上げてもらうため、スポンサーが喜び、番組としても面白くなる商品の取り上げ方を考え、事業局や制作局など各番組の担当部署にプレゼンテーションするのだ。

 

「スポンサーさんのために商品をたくさん紹介してほしいと考える営業と、その商品をただ紹介するだけでは番組として面白くならないと考える制作との間で、両方に納得してもらえる企画を考えることは簡単ではありません。でも、自分のアイデアが受け入れられ、形になった時の喜びは大きかったですね」
亀井さんは、徐々に「この商品を取り上げたいんだけど、何かアイデアない?」と先輩からも頼られる存在へと成長していった。

 

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放送前のアニメを最終チェック。ノートパソコンでDVDを見ながら、映像的にミスはないか、放送しても問題ないかなどを確認。万一ミスが見つかれば、即座に対応する。

 

社会にインパクトを与えられる記者の仕事に手応え。5年目に念願のアニメプロデューサーに

3年目、大阪本社の報道局ニュースセンターに異動した亀井さんは、事件現場などで日々のニュースを取材し、番組内で放送する5分から10分程度のニュース性のあるVTRを企画・制作する記者となった。

「異動直後から、何もわからないままカメラマンとカメラマン助手との3人で取材へ。とにかく情報を取らなければならないので、警察では誰に取材すればよいのか、聞き込みでは何を聞けばよいのかなどを、現場で先輩記者やベテランカメラマンに教わりながら学んでいきました」

 

1カ月が経過したころ、自ら提案した企画が実り、3分間のVTRを制作することになった。当時の関西ではまだ珍しかった、ベンチャー企業などがオフィス空間を間借りするコワーキングスペースの取材だ。

「原稿の書き方や原稿と映像の組み合わせ方などを先輩に教わりながら、一連の制作過程を経験。番組の中で放送された時は、感動しました。ところが、先輩からは『コワーキングスペースの良さが画面からまだまだ伝わってこない』と指摘され…。厳しい洗礼を受けました(笑)」

 

4年目には経済担当として、百貨店の催事やテーマパークのイベント、新製品の発表や大型商業ビルの新オープンに企業の決算報告など、生活全般と経済に関する取材がメインに。亀井さんは、それまでの報道畑の人たちが興味を持ちにくかったベンチャーの取材や、アニメや現代アート、文化財や将棋など、自分の関心が高い分野を追求し、ほかの記者とは違う企画を考えてきた。そして、映像にしにくい事柄をどうすれば視聴者に伝わるかに心を砕いてきた。

 

「突発的な事件を取材するデイリーのニュースに求められるのは、他局にはない情報を手に入れる独自性とスピード感。一方、企画VTRの取材に求められるのは、面白さを見極める視点。世の中の事象をどう切り取るか、どうやって面白く見せるかというロジカルかつ感性の勝負です。ときには、自分が取り上げたニュースによって世の中が動くこともあるのが醍醐味(だいごみ)ですね」

 

手応えを感じたのが、大阪みどり百選にも選ばれている鵜殿(うどの)のヨシ原の取材だ。鵜殿のヨシ原は、宇治川・桂川・木津川が合流する淀川右岸の河川敷一帯。ここに生えるヨシは、雅楽などで古くから使われている管楽器の篳篥(ひちりき)のリード部分に使用されている。ところが、その一帯に高速道路の建設が予定されているため、鵜殿のヨシ原がなくなると日本の伝統音楽である雅楽にも影響が及ぶのではないかという内容だ。

 

「このニュースだけがきっかけではなかったと思いますが、鵜殿の関係者と高速道路の関係者の話し合いが持たれることに。社会に何らかのインパクトを与えることができたことは、大きな励みになりました」

 

入社6年目、亀井さんは東京支社のテレビ編成部に異動し、念願のアニメプロデューサーに転身。プロデューサーの業務は、良い作品を見つけたり、オリジナル作品を企画して出資し、作品のクオリティを維持しつつ、滞りなく放送できるよう全体を管理・運用すること。

「やりたいと思い続けてきたことをできる…その喜びで胸がいっぱいでした。30歳までは、アニメの仕事に就けなくても勉強期間だと覚悟していたので、予想より2年も早くて驚きました」

 

2015年10月からは、深夜枠で放送しているアニメ『K RETURN OF KINGS』と『蒼穹(そうきゅう)のファフナー EXODUS』のプロデューサーとして、制作に出資した複数の企業で構成される製作委員会で進捗状況や宣伝活動について報告するほか、シナリオや絵コンテのチェック、テレビ放送に適さないシーンがないかどうかなどのチェック、スケジュール管理、宣伝業務などを行っている。同年10月に、大阪城ホールで開催した「MBSアニメフェス2015」の運営にも携わり、『黒執事』と『デュラララ!!』のステージを担当した。

 

「作品を紹介するたびに、1万人のファンから湧き上がる大歓声とエネルギーに心が震えました。これからも、ファンの人たちにさらに応援してもらえる作品を作っていかなければ、と決意を新たにしました。当面の目標は、プロデューサーとしての出資業務などに必須な契約関連の知識を蓄えて、企画を自分で立ち上げること。そして、『亀井が言うのなら、一緒にやろう』と言ってもらえる信頼関係を一人でも多くの人と築き、いつかは後世に名を遺すようなオリジナル作品を手がけるのが夢。好きなことを仕事にできて、幸せです」

 

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過去に制作した作品が保管されているテレビ編成部のライブラリーにて。イベントの参考資料として、過去の作品などから素材を探す。

 

亀井さんのキャリアステップ

STEP1 2010年 1カ月間の新入社員研修で放送局の多岐にわたる業務を学ぶ(入社1年目)

4月から1カ月間の研修に参加し、制作局、事業局、報道局、ラジオ局、営業など、大阪本社と東京支社の各部署をローテーション。先輩の話を聞いたり、営業同行するなどして、各部署の業務概要を学んだ。部署によって業務内容がかなり異なり、「まるで別会社のようだ」という印象を持ったのと同時に、一般的な企業に就職した学生時代の友人たちの仕事内容とはかけ離れていて「面白そうだ」と感じ、社会人となる不安よりも仕事への期待感が上回った。

STEP2 2010年 営業部にて、テレビ広告の営業を経験(入社1年目)

東京支社テレビ営業部に配属となり、テレビ広告の営業を経験。1年目は、タイム営業部でデスク補佐を経験。複数の仕事をミスなくこなすことに苦戦。既存の資料の更新作業などでは一部元データが残っていたり、売り上げ確認で最終的な数字が合わなかったりと、ケアレスミスでよく叱られた。2年目には、スポット営業部で企画・営業開発を担当。1年目の仕事は作業的なものも多かったが、2年目になると考える仕事が増え、クリエイティブ度がアップ。自分ができることが増えるにつれ、仕事の面白さも増していった。2年間の営業経験で、コミュニケーション力を養った。

STEP3 2012年 報道局ニュースセンターにて記者としての経験を積む(入社3年目)

7月、大阪本社の報道局ニュースセンターに異動。記者として、事件などのデイリーニュース取材やニュース性のある企画VTRの制作を担当。2年目には、この内容なら何分のVTRにまとめられるという経験則が身につき、年間15本程度を制作するまでに。経済担当時代に企画した、企業のトップに密着取材して人となりや経営手法を紹介する『BOSSの流儀』は、不定期だが現在も続行中のロングラン企画に。2014年、京都支局に異動し、記者として行政から教育、事件、経済、文化まで全般を取材。3年間の記者経験で、伝えたいことを映像化する感覚を身につけた。

STEP4 2015年 東京支社テレビ編成部にて、アニメのプロデューサーとなる(入社6年目)

7月、東京支社に異動。テレビ編成部にて、深夜アニメを中心としたプロデューサー業務に携わる。番組への出資企業で構成される製作委員会には20名以上が集まるなど、多くの人たちがかかわっていること、シナリオや絵コンテ、映像チェックなどの制作関連業務、納品するフォーマットの管理などの技術的業務、宣伝業務、契約関連業務など、仕事内容が幅広いことに驚いた。契約関連業務など、新たに覚えることは山積みだが、ゆくゆくは作品探しから制作まで自ら手がけたアニメを世に送り出したいと考えている。

 

ある日のスケジュール

10:00 出社してメールをチェック。絵コンテやシナリオなど担当作品の内容チェック、納品期限の確認などを行う。
12:00 ランチ。時間が合えば、先輩と近所の飲食店へ。本を片手に一人で食べに行くことも。
13:00 アニメの原作元の出版社の会議室で行われる製作委員会に出席。出資会社や制作会社の担当者から進捗状況を聞き、自社の取り組みを報告。
15:00 終了後、別の会社で行われる製作委員会に出席。
17:00 帰社してメールを確認した後、納品されたVTRをチェックする。
19:00 編集スタジオで近々放送されるVTRの編集作業に立ち会う。
21:00 退社。時間が合えば、外部のプロデューサーや学生時代の友人と食事に行くことも。

プライベート

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現代アートを収集していて、休日は美術館やギャラリーなどを回って、アート鑑賞するのが趣味。写真は国立新美術館。2015年8月、展覧会「ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム」に出かけた時。

 

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大阪にいたころは、ストレス発散のためによく買い物に出かけていた。写真(中央が亀井さん)は、2014年の冬に大学時代の同級生とその子どもと、神戸三田プレミアム・アウトレットに行った時。

 

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実家暮らしの時に家族が飼い始めたコザクラインコと、東京で同居中。「8歳になるオス。言葉はしゃべらないけれど、カゴから出すと肩に乗ってきます。私の趣味の将棋の邪魔をするのが好きなんです(笑)」。

 

取材・文/笠井貞子 撮影/刑部友康

金属技研株式会社

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今回の訪問先 【金属技研 群馬工場 技術課】

例えば発電事業用のガスタービンや航空機、自動車、半導体や液晶製造装置など特殊な金属部品を製造するには、熱処理(※1)や拡散接合(※2)、ろう付(※3)、精密機械加工などの加工技術を用います。このような金属加工の要素技術を武器に、日本のモノづくりを支えているのが金属技研です。1960年に理化学研究所のメンバーが独立して金属の光輝熱処理(※4)を基幹事業として設立した会社であり、現在はHIP処理(※5)をはじめとする熱処理およびろう付や焼結などの受託加工に加え、設計から製作までを一貫して行う提案型のモノづくりを提供しています。特にHIP処理は航空機やロケット、発電用ガスタービン、さらには大型加速器など、最先端分野向けの製品に幅広く用いられています。最近では厳しい品質基準が求められる航空機部品リペア事業へ進出。また、いち早く金属3Dプリンターによるモノづくりの実用化にもチャレンジするなど、技術開発にも余念がありません。今回は金属技研 群馬工場 技術課のシゴトバを訪ねました。

※1 加熱・冷却により素材の硬度や性質を変化させる処理方法
※2 母材を密着させ、母材の融点以下の温度条件で、塑性変形をできるだけ生じない程度に加圧して接合面間に生じる原子の拡散を利用した接合方法
※3 母材よりも融点の低い合金を溶かして接着剤として用い、複数の部材を接合する接合方法
※4 表面の高温酸化および脱炭を防止し、金属光沢を失わない状態を保持する熱処理
※5 熱間等方圧。超高温・超高圧を処理体に加えることで、通常は困難な材料の接合や内部欠陥の除去、粉末焼結などが可能

 

材料調達から金属処理加工までを一貫して提供

金属技研 群馬工場があるのは群馬県佐波(さわ)郡玉村町。玉村町は群馬県南部に位置する町です。江戸時代には日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう:日光東照宮に朝廷からの供物を奉献するための勅使が通る道。現在の県道142号線)で、玉村町はその宿場町として栄えてきました。遠方には赤城山、榛名山、妙義山を一望でき、自然豊かな土地です。群馬工場の周囲も非常にのどか。社宅に住んでいる社員以外は、ほとんどが車通勤。2013年に関越自動車道の高崎玉村スマートインターチェンジが開通したことで、東京や新潟方面へのアクセスがさらに便利になりました。
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群馬工場 技術課のシゴトバを紹介してくれたのは、同課の北森龍之介さんです。
「当社には国内に7つの工場(群馬、神奈川、茨城、千葉、成田、姫路、滋賀)がありますが、最も古くに稼働し、当社の成長を支えてきたのが群馬工場です。群馬工場では現在、12基の真空炉を構え、自動車や半導体、精密機器などの分野のお客さまを中心に、熱処理やろう付などの接合、精密機械加工および設計などを請け負っています。私が所属する技術課の仕事は、お客さまが求める仕様のモノを実現するために、必要なことを提案して具体化していくことです。携わる仕事は新規案件や試作がメインになります。営業課が獲得した案件について、どのような方法や工程で製作するかを考えます。必要があれば営業に同行してお客さまの元へ出向き、打ち合わせに参加。要求をどう実現するか任されるので、非常にやりがいがありますね」(北森さん)
写真は技術課の執務エリアです。
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「業務はデスクワークと製造現場での作業がほぼ半々です。デスクワークでは新規品の工程設計・図面作図を行い、製作工程の標準化を目指します。製品によってはさまざまな熱処理や加工を行うため、ブランク図(部品接合前の図面)や中間加工図を作図することもあります。私たち技術課が素早く正確な図面を書き上げなければ、製作日程が遅れたり、加工でのトラブルとなってしまうため、責任重大です。量産品の案件の場合、図面ができたら、現場での作業に移ります。図面に従ってまずは試作品を技術課の自分たちで製作。その試作品がお客さまの要求を満たしていれば、量産できるように製造課と連携しながら作業マニュアルを作成します。実際に製造が始まると、現場へ赴き、問題がなく作業が行われているかを確認。このように技術課では、工法の策定から量産化に至るまでの工程管理を担当するのです。そのほかにも、一品物となるお客さまの試作開発品の設計・製作や、製造工程をより効率的にするための治具(加工や組み立ての際に用いる器具)の製作も行います。このように試作品や治具の製作という手を動かす作業に従事したり、製造現場に赴いたりすることも多いですね」(北森さん)
写真はデスクのPCでCADを使ってブランク図を描いているところです。
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新規案件を担当するので、毎日が新しいことの連続だそう。
「扱う素材はもちろん、お客さまの要求もさまざまです。中には『どうやって形にすれば良いのだろう』というものも。ですがどんな難しい要求でもそれを実現するのが私たちのミッション。金属同士を接合する方法もろう付や拡散接合などいろいろあります。ろう付一つとっても、ろう材の材質は銀なのかニッケルなのか、複数の選択肢から最適のものを使用します。またさまざまな加工方法を組み合わせて作る製品の場合、その順番によって熱の影響による変形の仕方が変わるので、どういう順番で加工すれば精度が確保できるのか、そういう手順も検討します。お客さまが求める条件をクリアすることはもちろんですが、コスト的にも合う方法で作らなければなりません。時には外注先に依頼して行う工程もあり、外注先の選定から納期調整等も技術課のメンバーで行っているんですよ。私たちの仕事はいろいろな部署、取引先と連携をして初めて成り立ちます。コミュニケーション力は欠かせません」(北森さん)
写真は真空炉でろう付による接合をするため、現場担当者と指図書を見ながら、打ち合わせているところです(写真中央が北森さん)。
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作業室です。検討した接合方法で大丈夫か、実際に試しているところです。
「オフィスにいないときは、この作業室にいることが多いですね。ここでは試作品や治具を製作したりなど、実際の製品完成に至るまでのさまざまな準備を行います。机上の検討ではうまくいっても、実際に試してみないとわからないことはたくさんありますからね」(北森さん)

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北森さんが製作した治具(写真左の先端にローラーが付いたモノ)です。
「この治具は金属をつぶすためのもので、加工後最後の仕上げに使用できるか検討するため製作しました。設計図を描くことから始め、加工は自分で行いました。この治具は失敗することなく、一発で製作できました」(北森さん)
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金属技研は金属の熱処理や機械加工だけを行うわけではありません。材料調達から設計、品質検査や分析・解析まで、一貫したモノづくりが可能です。写真は医療用分析装置に組み込まれる部品を組み立てているところ。
「どのような形に加工すればお客さまが求める装置ができるのか、形状から検討をします。このような完成部品の製作を1工場で完結できるところが、当社の強みとなっています」(北森さん)
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HIP処理した部品の一例です。素材は内側が銅で、外側がステンレス。
「銅とステンレスは本来、接合しにくいのですが、当社が長年培ってきたHIP処理の技術により欠陥もなく、非常に美しく接合しています」(北森さん)
HIP処理は高価な処理のため、半導体などに用いられる高機能材料や航空・宇宙などの分野によく用いられる工程だそうです。
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電子ビーム方式の金属3Dプリンターで製作した加工サンプル品です。
「今はまだコスト的な問題など、課題はたくさんありますが、数年後には金属3Dプリンターでのモノづくりが実用化されるよう研究や試作を進めています。受託加工業でこのような最先端の技術を取り入れているところはほとんどありません。このように当社は、新しい取り組みへの挑戦も積極的に行っています」(北森さん)
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ハタラクヒト 社風のテーマは「和」。人のつながりを大切にしているシゴトバ

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引き続き北森さんに「金属技研 群馬工場 技術課」というシゴトバの魅力、やりがい、職場の雰囲気などについてうかがいました。
北森さんは東京都市大学工学部を2013年に卒業し、金属技研に入社しました。
「大学の研究室では、水素自動車の研究を行っていました。より熱効率の良い燃焼方法を研究するため、エンジン部品の改造を金属加工の専門家の方に、依頼したんです。その方が加工しているのを見たとき、初めて金属加工への興味が湧き、自分でもやってみたいと思いました。とはいえ、就職活動時は分野を決めず、幅広く探すことに。リクナビで興味のある会社をチェックしていくうちに出合ったのが金属技研です。実際に工場見学に行き、そこで働いている人たちと話してみるとすごく話しやすく、魅力的だと感じましたね。ここでなら、きっと楽しく働けると思い、決めました」

 

3カ月間の研修が終わり、配属されたのは熱処理係。現場で素材の焼鈍(しょうどん ※1)、固溶化処理(※2)、焼き入れ(※3)、時効処理(※4)などの作業を行います。
「1年2カ月間、携わりました。平日は設備を24時間稼働させているため、3交替制勤務を経験。1人で12基ある真空炉の半分を担当していましたね。現場での仕事は体力が求められましたが、金属熱処理のいろはを知るよい経験だったと思います」

 

※1 金属材料を高温に保持したのち徐冷する熱処理
※2 元素を均等に拡散させた後、急冷により元素を内部に閉じ込める熱処理
※3 所定の高温状態から急冷させる熱処理
※4 ある温度での雰囲気で、時間による特性変化を促進させる熱処理

 

14年10月に技術課に異動し、現在は新規品・試作品の製作を担当しています。
「担当する製品の大きさはさまざまですが、面白さややりがいを感じるのは『これはちょっと難しいだろうな』と思ったものでも、どうにか形にできたとき。以前、タングステンとステンレスの拡散接合品を製作した際は、1個をつくるのに30回ほど、油圧ジャッキで材料の反りを修正しながら削るという作業を行いました。それぐらい製作に手間がかかるものもあります。だからこそ、できたときの達成感は格別なんです」

 

北森さんの出身専攻は工学部ですが、化学系だったため技術課に配属されるまで図面を描いたことがなかったそう。
「私たちの仕事で最も重要な金属の知識も、会社に入ってから学びました。仕事をしていく過程で自然に身につけていくことができるので、心配はいりません。またOJT制度があり、入社して1年間は先輩社員が全面的にサポートしてくれます。私は入社3年目ですが、現在もその当時の先輩社員がいろいろ相談に乗ってくれます。そういう風土が社内に根付いているんです。学生時代にむしろ身につけておいた方が良いと思うのは、息抜きの方法やコミュニケーション力。私たち技術課の仕事は製造現場、営業などの社内の他部署、さらにはお客さままでいろいろな人とコミュニケーションすることで成立します。誰とでも気後れすることなく話せることが大切なんです」

 

最後に金属技研という会社の風土・文化について聞きました。
「当社の社風のテーマは人のつながりである『和』。つまり人を大切にしている会社です。特に群馬工場は部署間のやり取りが盛んで、風通しが良いと感じています。仕事がしやすい雰囲気のシゴトバです」

 

アクティブに活動するランニングクラブ

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ランニングクラブの活動が盛んです。写真は群馬工場のランニングクラブメンバーで、15年10月25日に開催された上州太田スバルマラソンに参加したときの一コマ(写真右下が北森さん)。スバルマラソンではハーフマラソンのほか、10キロメートル、5キロメートル、2キロメートル(小学生のみ)のコースが用意されていました。
「私が参加したのは10キロメートルのコース。クラブのメンバーの中には、ほかの大会で100キロメートルマラソンに参加する人もいますが、私を含め多くのメンバーが自分の体力や目的に合わせて楽しんで走っています」(北森さん)

 

金属技研にまつわる3つの数字

創業以来、モノづくりに欠かせない金属部品の加工を一貫して手がけている金属技研。以下の数字は何を表しているのでしょうか? 正解は、次回の記事で!

1. 100000000度

2. 8

3. 15台

 

前回(Vol.140 沖電気工業株式会社)の解答はこちら

 

取材・文/中村仁美  撮影/臼田尚史


【マレーシア編】さまざまな配慮が必要な多民族国家マレーシアでの仕事と生活

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Reported by りん
マレーシアにある日系メーカーの現地法人に勤務。現地での楽しみは、マレーシア国内ならびに周辺のアジア諸国への旅行やゴルフ、ダイビングなど。

民族ごとの宗教や文化を尊重する

こんにちは。りんです。今回は、多民族国家であるマレーシアについてお話しします。

 

多民族国家マレーシアの人口構成は、マレー系約65パーセント、華僑約25パーセント、インド系
約10パーセントとなっており、宗教もさまざまです。まず、ほとんどのマレー系はイスラム教徒「ムスリム」であり、「豚肉を食べない」「アルコールを飲まない」「豚肉を一度でも調理したことのある調理器具で料理したものは食べない」「殺されるときに決められた絞め方をされていない鶏肉は食べない」といった食文化の違いがあります。豚肉やアルコールはノンハラルコーナーでしか購入することができません。また、1年のうち1カ月間程度、断食(ラマダン)期があり、仕事の効率に支障をきたすケースも少なからずあります。ラマダンの間は、日の出から日没までは飲食を断たなければならないので、やはりお腹が空くのでしょう。集中力が目に見えて低下する社員や、体調を崩して会社を休む社員も出てきます。そうは言っても、信仰や文化は尊重しなければなりません。お祈りの時間にSurauと呼ばれるお祈り部屋に行くときも、そっと見守るようにしています。

 

顧客を連れて日本に出張することもあるのですが、ムスリムの方をお連れするときには、そのSurauの代わりになる場所を探さなければなりません。また、ムスリムの方と食事するときは、「豚肉やアルコールなどを使わない」といった、イスラム教の戒律に従って製造したことが証明されている「ハラル認証」のレストランに行かなければなりませんが、ハラル認証を受けたレストランはまだまだ日本には数が少ないため、探すのが困難で、アレンジに苦しんだ経験があります。

 

複数の民族が共存しているだけに、民族間格差のようなものも実際はあります。民族間格差は、特に職種に反映されている場面が少なくないように思います。掃除をする人や単純作業を請け負う人たちには、マレー系マレーシア人や、ミャンマーなどアジア各国からの移民が多く、クリエイティブな仕事やマネジメントは華僑が多い、といったイメージです。

 

ただし、マレーシアにはマレー系マレーシア人を優遇する「ブミプトラ政策(マレー人優遇政策)」があり、雇用や教育、さまざまな場面でマレー系マレーシア人が守られています。例えば、人事採用の場面では、一定のマレー人がその職種に携わるようにしなければならないといったルールがあるのだとか。大学に在籍する学生の内訳にも一定の「マレー系枠」があるそうで、成績順に上から合格にするというわけにはいかないようです。

 

くよくよ悩まないマレーシアの人々

どの民族にも共通して言えるのは、日本と比べて、楽観的な人が多いということ。「心配しすぎるな」「真面目に考えすぎるな」という、良い意味での“いいかげんさ”、さらに言うと“器の大きさ”があるように思います。うまくいかないことがあっても、いつまでもうじうじ悩んでいるような人はあまりいないように見受けられ、常に前を向いて明るく生きている人が多いという印象です。

 

そうした大らかさに救われたことも多々あります。あるとき、プロジェクトが失敗してしまったことがあり、私はとても落ち込んでしまっていたのですが、周囲の現地社員たちがさかんに「深刻になるな」「落ち込むなよ」と励ましてくれて、ずいぶんと心が軽くなったものです。日本だと、「再発防止のために原因を究明する」という理由で、反省を求められることも多いと思うのですが、こちらではそうした追及は一切なし。おかげで、落ち込んでから立ち直るまでのスピードがずいぶん速くなった気がします。

 

以前、アメリカにいた経験から言うと、アジアにおける日本人のステイタスは非常に高いと感じますが、マレーシアでは特にそう思います。日本や日本人に対する憧れがあるのです。これは私個人の意見ですが、アメリカでは、日本人が認めてもらうためには、人一倍の努力が必要だという印象がありました。アメリカで働く友人から、差別を受ける場面もあると聞いたこともあります。しかし、マレーシアでは、日本人であることから生じるハンデを感じることは、まずありません。

 

マレーシアが「Look East政策」で、日本を発展のお手本としたこともあり、マレーシアの人々には日本に対する憧れもあるようです。ファッションや化粧品などの美容、食べ物、電化製品など、日本のものを取り入れる人は多いですね。

 

次回は、首都クアラルンプールでの私の暮らしについてお話しします。

 

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イスラム教徒のためのお祈り部屋「Surau」の標示。Surauは、各鉄道駅、ショッピングセンター、ホテルなどに設けられている。

 

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別名「ピンクモスク」と呼ばれる、クアラルンプール近郊のイスラム寺院「プトラ・モスク」。夜はライトアップされてさらに幻想的な光景に。

 

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イスラミックアートミュージアムのドーム天井は、さすが“アート”の総本山なだけあって、装飾も繊細で芸術的。

 

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マレーシアが国家を挙げて日々開発している行政都市・プトラジャヤのプトラジャヤ湖にかかるスリ・ワワサン橋。美しいライトアップはお気に入りの風景だ。

 

構成/日笠由紀

銀行内定 近畿大学 西田衣利(えり)さん

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就活データ
志望業界:金融 説明会参加:40社(うち合同企業説明会3回) 先輩訪問:なし エントリーシート提出:8社 面接:10社 内定:3社(銀行2社、インフラ1社) 活動費用:約7万8000円(交通費3万円、スーツなど洋服代1万円、書籍代5000円、外食費2万円、証明写真代1万円、雑費3000円。交通費は主に関西圏での移動。京都での会社説明会に参加する場合などに、費用がかかった。証明写真はヘアメイク付きの撮影で、プリントとデータを購入)

会社説明会でさまざまな企業を見た中で銀行への興味を強める

就活について、何の知識もないまま早く始めなければと思い、リクナビで合同企業説明会の情報をリサーチ。説明会では興味のある会社、話を聞いてみたい会社を回りました。興味を持ったのが、一般職や事務職を採用する企業。個別の会社説明会でも不動産や銀行、自動車ディーラーなど業界はさまざまですが、一般職や事務の募集に限定して探していました。

 

いろいろな企業を見る中で金融、特に銀行に興味を持ったんです。先輩の友人が銀行に勤務していて、その方からどんな仕事をしているのか詳しく教えてもらいました。営業職のように売り上げ数字を追い求める仕事よりも、銀行など窓口業務、会社だと一般事務の仕事が自分には合っていると思いました。また、土・日が休みだということも希望。というのも、中学生から始めたジャズダンスを今でも続けていて、週末はダンスの練習や大会出場などに使いたいと思ったんです。

 

明確に志望業界を絞ったわけではなく、なんとなく銀行がいいなという程度で5月に入り、面接が始まりました。まず、先輩の友人が勤めている銀行で5月1日に会社説明会があり、その場で筆記試験とエントリーシートの記入。会社説明会で接客やおもてなしに力を入れているというのを聞き、学生にもフレンドリーに接してくれることに好感を持ちました。数日後にグループ面接があり、志望動機や家からの通勤時間などを確認されました。2次は個人面接。この時は学生時代に頑張ったことや自己PRなどを聞かれました。

 

さらに、会社説明会に出席した不動産会社は、流れのままにどんどん選考が進んでいったんです。土・日は仕事で休めないこと、事務職の顧客接点は電話応対が中心だということに加え、そのほかの事務業務も社内で完結するものばかり。最初はそれでもいいと思っていたのですが、銀行の窓口業務のように、もう少し人と接する仕事がしたいと気づきました。

 

そんなことを考えながらも3回の個人面接を受けました。休日が気になることを伝えたら「残業も多いし、土・日は休みではないので希望には沿えません。けれど、ダンスを続けたいという気持ちは理解できます。選考をこのまま保留にし、いったん中断してもいいですよ」と言っていただいたんです。

 

不動産会社は保留にし、銀行をメインに活動することに。5月末から6月にかけて、銀行6社、住宅メーカーの一般職、インフラの一般職などで選考が始まりました。金融の中で生命保険なども考えたのですが、命にかかわることは自分のメンタルが耐えられないと思ったんです。というのも、学内の生命保険の会社説明会で、お父さんが病気で亡くなったけれど、保険のおかげで子どもが大学に進学することができたというある家族の映像を見て、号泣してしまったんです。損害保険も事故対応などは自分には難しそうだし、証券会社はハードワークというイメージで、結局、銀行しか興味を持つことができませんでした。

 

最終面接で落ちたと思い泣いて帰った翌日に内定の連絡

現在の内定先は、5月に会社説明会があり、その場でエントリーシートを提出。すでに別の銀行でエントリーシートを書いていたので、銀行への興味は明確になっていました。あとは、現在の内定先への志望動機をどう書くかですが、説明会の前に考えておいたので、戸惑うことはありませんでしたね。さらに、1歳上の姉に他社のエントリーシートを見てもらい、わかりづらい点や矛盾点を指摘してもらい、ブラッシュアップしていたのも役立ちましたね。

 

6月上旬にWebテストを受けたあと、先輩社員との交流会に参加。窓口、営業、支店長など、さまざまな職種や社歴の方が登場。私は窓口業務の方2名を選び、お話を聞きしました。複数の学生からいろいろな質問があったのですが、一つひとつの質問を親身になって聞いてくださる姿、丁寧に答えようとする姿勢がとても素晴らしいと好印象。中でも、業務についての話が特に印象的でした。銀行はミスが絶対に許されないのですが、人間ですので、ちょっとしたミスはしてしまうもの。ただ、それをできる限り防ぐため、自主的にミスノートというものを作成し、ミスを防ぐための心がけ、細心の配慮をすべき点などを記入されているそうです。ミスをなくそうとする努力や向上心がすごいと思いました。また、女性活用を積極的に進め、出産後も時短勤務など、長く働き続ける体制が整っていることも聞き、その点にもひかれました。そこで、本命を現在の内定先と先輩の友人が勤める銀行の2社に絞りました。

 

7月1日に、先輩の友人が勤める銀行で最終面接がありました。答えるたびに面接担当者がため息をついたり、興味のない態度を見せるので、ものすごく不安に。さらに「最近、起こったハッピーなことは?」という質問をされたのですが、「いとこが結婚したことです」と答えたら「結婚が本当にハッピーなのか?」と返されてしまったんです。たぶん、だめだろうなと思っていたら数日後に内定をもらいました。面接担当者の態度や切り返しに左右されず、自分らしさを大切に真摯に答えたことが良かったと思います。さらに、インフラも面接2回を経て内々定をもらいました。ただ、現在の内定先の選考が残っていたので、就活を続けることにしました。

 

8月になり、現在の内定先はグループディスカッションから始まりました。1グループ5人で、「仕事のできる人とは?」がテーマ。普段はあまり積極的に話す方じゃないのですが、物静かな人が多かったので、積極的に意見を発したり、話をまとめたりしました。そのあと、3度の個人面談を経て9月1日に最終面接。個人面談だと思っていたら、学生2名の集団面接。2人だと比べられているようで、とてもやりづらかったです。もう1人の学生はとても面接慣れをしていて、この会社に入りたいという気持ちが強く感じられました。例えば「8月まで他社を練習のために受けることも考えましたが、銀行以外は受けるつもりはありません。ほかの銀行の選考も進んでいますが、合格したらお断りします」ときっぱり。自分はそこまで言い切ることはできないと思いました。

 

面接担当者も、私には学生時代のことや志望動機について軽く聞いて終わるのに、もう1名には深掘りした質問をするんです。私には興味がないんだなと落胆し、面接が終わったあと泣きながら帰りました。翌日、アルバイトの休憩中、友達に「昨日の面接、落ちたわ」と話している時に電話が鳴り内定の連絡。ものすごく驚いたと同時に、ものすごくうれしかったです。もうひとつの銀行も本命でしたが、現在の内定先の方が社員の雰囲気が自分に合うと判断。そこで、現在の内定先に決め、就活を終えました。

 

現在の内定先は地方銀行ですが支店も多く、また、大きな会社ですがきめ細やかな顧客サービスを追求しています。入社したら、私は希望の窓口業務になりますが、お客さまと接しながら接客マナーやお客さまへの気遣い、気配りを身につけたいと思います。

 

低学年のときに注力していたことは?

小学生でクラッシックバレエ、中学からジャズダンスを始め、大学でもダンスサークルに所属。入学前からの目標だった学園祭でのダンスコンテストで優勝できたことが最も思い出深いです。練習量はもちろん衣装を手作りにするなど、チーム力にこだわることで達成することができたと思います。

 

就活スケジュール

大学3年3~4月
合同企業説明会に参加
リクナビで合同企業説明会の開催情報を検索し、参加。その中で、一般職や事務職を採用する企業に興味を持つ。個別の会社説明会でも業界を問わず、一般職や事務の募集を行う企業へ。
大学4年5月
会社説明会、面接、エントリーシート提出など
銀行に興味を持ち、銀行での面接が始まる。会社説明会に出席した不動産会社でも選考が進むが、自分の希望に合わないことを伝え、選考を保留にしてもらい、その後選考は受けず。現在の内定先の会社説明会に参加。
大学4年6月
選考が徐々にスタート
銀行6社、住宅メーカーの一般職、インフラの一般職の選考が開始。現在の内定先はWebテストのあと、先輩社員との交流会に参加。この時点で、現在の内定先を含む銀行2社を本命に決める。
大学4年7月
銀行、インフラから内々定
先輩の友人が勤める銀行で最終面接。落ちたと思ったら、数日後に内々定。さらに、インフラで面接2回を経て内々定。現在の内定先の選考が残っていたので、就活を続行。
大学4年8月
グループディスカッションと面接
現在の内定先でグループディスカッション。その後、3回の面接。面接では自己PRや志望動機など一般的な質問が中心だった。
大学4年9月
現在の内定先から内定をもらう
9月1日に最終面接。学生2名の集団面接で、もう一人の学生と比べたら志望動機を強くアピールできず、不合格だとあきらめる。翌日、内定の連絡をもらい、就活を終了する。

 

就活ファッション

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入学式で着た黒のプレーンなスカートスーツを着用。シャツは清楚な印象を与えたいと思い、上までボタンが締められるものを選んだ。夏場は汗や汚れが気になるので、4枚を用意。靴は疲れにくいようヒールが低く、ストラップの付いた歩きやすいタイプに。かばんは大きめで、ポケットが多いなど機能面を重視。

 

取材・文/森下裕美子 撮影/島並ヒロミ

ハービー・山口

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はーびーやまぐち・1950年東京都生まれ。73年東京経済大学経済学部卒業後渡英。ツトム・ヤマシタ主宰の劇団「レッド・ブッダ・シアター」での役者としての活動などを経て、イギリス人写真家グループ「クオリティ・オブ・ライフ」に参加。歌手デビュー前のボーイ・ジョージとルームシェアするなど多くのミュージシャンと交流しながら、70年代の生きたロンドンを写真に記録した。帰国後、84年に渋谷パルコで初の個展「CLIMB」を開催。福山雅治、山崎まさよし、松任谷由実、ドリームズ・カム・トゥルーなど数多くのミュージシャンに信頼され、CDジャケットなどの撮影を手がける。市井の人々のいきいきとした表情を切り取った作品も高い評価を受けている。また、写真家としての活動のかたわら、エッセイ執筆、ラジオ・テレビのパーソナリティとしても活躍。2011年度日本写真協会賞作家賞受賞。大阪芸術大学客員教授、九州産業大学客員教授。

就職先が決まらず、留学する友人に伴われて何のあてもないまま渡英した

たくさんのアーティストを撮影させていただく機会がありましたが、特に福山雅治さんのファンの方々にはよく名前を覚えていただいて、僕の個展にも来てくれるんですよ。「ハービーさん」なんて声をかけてくれて、うれしいですね。福山さんを撮り始めたのは1993年の全国ツアーに同行してドキュメント写真集を作ったのがきっかけ。当時福山さんはデビュー3年目でした。このツアーの前に雑誌の取材などで数回撮らせていただいたことがあり、「背が高くて、人柄がとてもいい方だな」と感じていましたが、福山さんのことをよく知っていたわけではありません。ところが、1日、2日と一緒に時間を過ごすうちに彼の人間性に触れるわけです。

 

例えば、福山さんの故郷・長崎のコンサートに同行した時。リハーサル前の空き時間に「そういえば、僕の父も長崎出身なんです」と話したら、「ハービーさん、ちょっと付き合ってくれますか」とおっしゃったんです。行く先は、なんと福山さんの先祖代々のお墓。かいがいしくお墓の掃除をする彼の姿に父親思いのひとりの青年を見て、「ああ、芸能人・福山ではなく人間・福山を撮ろう」と心を突き動かされました。

 

写真家というのは裏方ですから、あまり名前を覚えてもらえません。著名なアーティストのCDジャケットの撮影をしたりしていても、CDを買った人は写真家の名前まではたいてい気にしないものです。ところが、福山さんは初めてお会いした時から僕のことを知っていました。彼は高校時代からパンク・ロックバンド「THE MODS(ザ・モッズ)」に憧れていて、「モッズ」のボーカルの森山さんが僕の写真を気に入っていたことから、名前を覚えていたんです。「ゆず」のふたりも初めての撮影で「今日はハービーさんが撮ってくれるんですか? うれしいです」と声をかけてくれて驚きました。彼らは布袋寅泰さんの音楽を聴いて育ち、僕が布袋さんの「GUITARHYSM(ギタリズム)」に作詞家として参加していたことから、僕の名前を覚えていてくれたんです。

 

僕は23歳の時(73年)にイギリスに渡り、パンク・ロックやニュー・ウェーヴ(70年代半ばに商業主義のロック音楽に反発して起きた、英国を中心とする新しい動き)全盛のロンドンでさまざまなミュージシャンと出会って音楽関係の撮影をするようになりました。ヨーロッパにレコーディングに来た日本のアーティストの撮影にも何度か声がかかり、「THE MODS」や布袋さんにもそんな中で初めて会ったんです。こういう話をすると、「ミュージシャンの撮影がしたくてロンドンに渡ったんですか?」とよく聞かれるのですが、そうではありません。大学を卒業したものの、就職先が決まらず、学生時代に同じ写真部だった友人が半年間留学するというんで、ついて行ったんです。写真が好きで、いつかはプロになりたいと思っていましたが、何のあてもないままの渡英でした。

 

最初はロンドンに長く滞在するつもりもなかったけれど、水が合ったんでしょうね。当時の日本では「一流大学に入って一流企業に入ることが幸せ」というようなレールが社会に敷かれているような気がしていましたが、ロンドンで出会った人はそれぞれが自分の道を自分で選択していて、それがとても楽に感じたんです。また、街で誰かを撮影させてもらうときも日本では気後れしていましたが、外国の開放感もあってか、「撮らせてください」と素直に言えました。それが心地良くて、1日でも長くロンドンにいたいと思うようになったのですが、写真を仕事にするすべを知らず、お金がどんどんなくなって…。もともとは報道写真家になろうと考えていたので、石油ショックまっただ中のクウェートに出かけて撮った写真を知り合いづてに日本の出版社に見てもらおうと動いてみたりもしたのですが、何の進展もありませんでした。

 

半年の観光ビザが切れそうになり、どうしようかなと考えていた時に知ったのが、当時アメリカやヨーロッパで人気のあった劇団「レッド・ブッダ」の役者のオーディションです。パーカッショニストのツトム・ヤマシタさんが主宰する劇団でした。役者に少し憧れもあったし、劇団員になればビザも延長できる。おまけに、多少は収入も得られると考えて受けたら合格。役者として100回舞台に立ちましたが、このままでは「写真家になる」という目的から外れてしまうと思って1年で退団し、貧民街にある友人のアパートに居候しながら、写真を撮り続けました。そのころにたまたま訪れたギャラリーで2人のイギリスの若者と意気投合し、彼らの家に誘われて翌日遊びに行ったら、そこは当時新進気鋭の若手写真家グループの住居兼倉庫でしてね。地下が暗室になっていて、印画紙をくれるというのでそれまで撮りためた写真100枚ほどを現像して置いて帰ったんです。それで、翌週また行ったら、「君の写真が気に入ったので、僕たちと一緒にやらないか。ここに住んでもいい」と。家賃はいらなくて、おまけに印画紙もフィルムも使い放題という願ってもない話を断るはずがありません。このグループに入れたことがプロの写真家への大きな一歩になりました。

 

ミュージシャンを撮り始めたのは、ツトム・ヤマシタさんが『GO』というアルバムを作っていた時にスタジオに呼んでくれたのがきっかけです。劇団員だった時はヤマシタさんとお話しすることはほとんどありませんでしたが、劇団を辞めてから応援してくれて、「撮ってくれない?」と声をかけてくれたんです。スタジオにうかがってみると、ギタリストのアル・ディ・メオラやミッチ・ミッチェル(バンド「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」のドラマー)といった日本でも知られる大物ミュージシャンばかり。彼らのレコーディングからコンサートまでのドキュメントを撮ったことがその後の足がかりになりました。

 

渡英して知り合った友人たちの中には、資金が底をつきて帰国したり、夢をかなえられずに卑屈な考えになってしまった人も少なからずいました。僕もそうなりかねない状況でしたが、何とかロンドンで居場所を見つけ、写真家としての活動を続けられたのは、たくさんの人たちに助けられたから。ラッキーだったとしか言えませんが、なぜみんなが応援してくれたかというと、僕が写真を撮ることを愛していて、実際にコツコツと撮っていたからかもしれないなと思います。

 

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ただ人を撮りたい。被写体が有名な人であれ、市井の人であれ同じスタンスで

写真を撮り始めたのは中学2年生の時です。僕は生後2カ月で腰椎カリエスを発症。中学時代の途中までずっと石膏の硬いコルセットをつけて生活していて体育の授業も参加できず、孤独を感じていました。中学でブラスバンドに入ってようやく音楽という楽しみを見つけたのに病気のせいで退部を余儀なくされ、希望をなくしていた時に同級生に誘われて入ったのが写真部。自分にも何かを表現できるというのがうれしくて夢中になり、プロになって「人の心が優しくなるような写真を撮りたい」と強く思いました。病気のために孤独感や疎外感を味わうことが多かったので、写真で人の心が優しくなったら、自分のようなはみだし者でも生きていけるんじゃないかって。

 

撮りたいものがはっきりしていたせいか、うまい具合に、僕に依頼されるのは人を撮る仕事がほとんどでした。人間を撮れるんだったら何でもいいんです。被写体が有名な人であれ、市井の人であれ同じスタンスで、僕はただ人を撮りたい。どんな人でもいいところがありますから、人を撮る限り、イコールそれは僕の作品になるんです。

 

写真家を目指す若い人たちから「個性を出すにはどうすればいいですか」と聞かれることがありますが、個性は誰でも持っているんですよ。だって、みんな顔も違えば、育った環境も違う。僕にしても、病気を患ったことが「人の心を優しくする」というテーマを持つことにつながったんでしょうし、必ず何かあるはずなんです。問題は与えられた個性を生かせるかどうかですよね。生かすために大事なのは、好奇心を持っていろいろなことに挑戦し、「これ」と決めたことを続けることだと思います。僕であれば、写真を写すという努力をいつになってもやめてはいけない。やめると、そこで消えていくじゃないですか。

 

もちろんスランプに陥ったことは何度もありますよ。特にロンドンに渡ってしばらくは「これでいいのだろうか」と迷うことも多かった。そんなころに地下鉄の駅でイギリスの伝説的なパンク・バンド「クラッシュ」のジョー・ストラマーを見かけました。プライベートの時間なのでためらいもありましたが、思い切って「写真を撮らせていただいてもいいですか?」と聞いたところ、ほほ笑んで「いいよ」と。同じ車両に乗り込んで車内で撮影したところ、ジョーが電車を降りる時に僕に「撮りたいものはみんな撮れ。それがパンクだ」と言ったんです。その言葉に「自分の心に素直に撮り続けよう」と励まされました。名もない東洋人の写真家にジョーがなぜそんな言葉をかけてくれたのか、彼が生きていたら、聞いてみたいですね。

 

写真に出合って50年。2014年に開いた個展に来てくれたある女性が、感想ノートに「ハービーさんの写真に救われました」というメッセージを残してくれました。彼女は自殺未遂をして病院に運ばれた帰りに、偶然個展の広告を目にし、会場に来てくれたそうなんです。そして、「ハービーさんの写真を見て自殺なんてとんでもないと思った。これからは強く生きていきます」と。僕の写真が誰かの力になったなんて、うれしかったですね。写真をやっていてよかったと思いました。多少なりとも、人の役に立つこと。仕事のゴールというのはそこにあると思います。億万長者にならなくても、生きている充実感があれば人は幸せになれる。仕事でその幸せを味わえたら、それ以上のことはないのではないでしょうか。

 

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INFORMATION

フォト・エッセイ集『雲の上はいつも青空 Scene2』(玄光社ムック/税抜き2800円)。ハービーさんの写真のテーマは常に「生きる希望」を撮ること。温かいまなざしの写真と真摯な言葉の数々が心をほんのりとさせてくれる。未発表の作品やこれまで未公開だった暗室、愛用のカメラ、レンズなども公開している。

 

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取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康

 

 

アサヒビール株式会社

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こんどう・まな●営業本部 量販統括部 販促グループ 担当課長。東京都出身。39歳。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。2000年入社。自分にとって身近な「モノ」に携わりたいとメーカーを志望し、ニッカウヰスキーのアットホームな社風にひかれ入社を決めた。現在、夫と1歳の娘と3人暮らし。

ニッカウヰスキーからアサヒビールへ。ウイスキーブームを一過性で終わらせない

入社16年目の現在、洋酒ブランドの販促立案を担当している近藤さんにとって、ウイスキーは思い入れのある商品だ。2001年にアサヒビールの子会社となった洋酒メーカー・ニッカウヰスキー株式会社が、大学卒業後に入った最初の会社だからだ。

中学、高校時代を、イギリスや香港など海外で過ごした近藤さんにとって、「英語を使って海外とのやりとりがある仕事に就きたい」という思いは、就職活動の一つの軸だった。ニッカウヰスキーの温かみのある会社の雰囲気に「ここだ」と直感し入社を決め、配属されたのは国際部。輸入洋酒やワインの国内導入に関する渉外補佐を担当した。

「海外のサプライヤーと日本市場への導入商品について折衝するのは、まさにやりたかった仕事でした。ただ、営業現場の経験もなければ、輸入商品がどのように日本に入り、どう販売されていくのか、物流の流れもわからないことばかり。海外の商品担当者と商品導入や価格設定、販促内容の打ち合わせをする先輩の通訳をしながらどんな商品をどう販促展開しながら売っていくのか、その流れを入り口から見られたことは貴重な経験でした」

 

2年目になると、アサヒビールへの営業統合が決まり、「大好きな仲間と一緒に転職した」気持ちでアサヒビールに転籍。ニッカウヰスキーでの仕事を引き継ぐ形で、ワイン部および洋酒部を兼任した。どんな海外サプライヤーでも、「アサヒビール」という社名を出せば、会社の説明をする必要なくわかってくれることに感動し、大手企業に入ったことを実感したという。

 

転機は入社3年目に訪れる。当時の上司が「営業現場に近い場所で、経験を積んだ方がいい」と九州統括本部 営業企画部への異動を打診してきたのだ。縁もゆかりもない九州転勤に戸惑いながらも、「せっかくアサヒビールにいるのだから、ビールの販売戦略も見てこよう」と量販チェーンの営業サポート業務を担当することになった。

「量販マーチャンダイザー(MD)として、商品の店頭展開を営業担当と一緒に考え資料を作成し、お得意先のチェーン量販店さまに提案していくのが私の仕事でした。営業は、ビールからワイン、洋酒まで、当社が扱うすべての商品を売るので、共に販売戦略を考えるMDも商品知識は必須。あらゆる店舗に足を運び、ワインがよく売れている棚の特徴や、ビールが売れているのはほかのお店と何が違うのかなど、売り場研究も重ねました。ある大手チェーン店から、お酒の売り上げを上げるために売り方の方法を提案してほしいと言われた時は、売り場の工夫で成功している他店舗事例を本社から集め、ビール、ワインなどそれぞれの棚割り(棚に商品を並べるレイアウト)方法を提案。酒類メーカー各社がプレゼンした中で、私たちはワインの棚割りを任せてもらい、結果として、当社商品の大幅導入増につながりました。提案が実際に採用され、売り場づくりを経験してようやく、『アサヒビールの一員になれた』という感覚を得ましたね」

 

量販MDを5年間経験したのち、本社のワイン事業部に異動した近藤さんは、ブランドマネージャーとしてアメリカやスペイン、チリなどの輸入ワインの商品導入、販促立案を担当。海外サプライヤーとの折衝経験と、量販店への販促立案経験の両方が生きる仕事だった。

「海外サプライヤーは、より高価な商品をより多く日本に導入したいと考えますが、日本の市場とマッチしなければ売り上げにはつながりません。08年当時は、ワンコイン(500円)ワインが気軽に楽しめるようになったころ。『まずは大衆向けワインで、市場認知度を拡大していきましょう』『高級路線は、大衆向け商品と並行していってはどうでしょうか』などと提案し、各ブランドの店舗展開、販促施策を考えていきました」

 

年に1~2回、海外から商品担当者が来日する際は、必ず店舗につれていき、実際の売り場を見せるようにしたという。

「ワイナリーを持っている国の多くは、売り場面積が日本の何十倍もあり、ワインがずらりと並んでいます。まずは日本の売り場の小ささを認識していただき、『こんなに小さな売り場なら、何を置くか厳選しなければいけない』という思考になってもらわなくてはいけません。海外と何度もやりとりを重ねた末に導入したブランドが、市場に受け入れられ売り上げが上がると『この商品を選んで間違いなかった』とうれしくなります」

 

14年4月から1年間の産休・育休を経て、現在は量販業態における洋酒ブランドの販促立案を担当している。市場拡大は難しいと言われてきた洋酒だが、NHK朝の連続ドラマ小説『マッサン』(14年9月から放映された、ニッカウヰスキーの創業者を主人公のモデルにした作品)の大ヒットにより、洋酒の売り場面積は拡大し、取り扱う店舗も増加。その市況の変化にようやく慣れてきたと話す。

「もともと洋酒を好きな方はもちろん、ドラマを機に好きになってくれた方、飲み続けてくれている方、それぞれにもっと洋酒を楽しんでいただけるよう販促提案を進めていくのが私の役割。一過性のブームで終わらせないよう、年間で洋酒が売れるタイミングを分析しどんな販促展開をしていくのか、広がった市場の今後を決めるうえで、今が重要な時期だと思っています」

 

今後は、「いろんな仕事を経験することで幅を広げていきたい」と話す近藤さん。

「ニッカウヰスキーからアサヒビールへと所属する会社が変わったことで、経験できたことがたくさんあります。大きな企業にいるからこそ、ジェネラリストとして多職種に挑戦できる機会があると思うので、まったく違う分野にも足を踏み入れたいですね」

 

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食品メーカーとコラボレーション企画について打ち合わせ。現在、店頭で一緒に売る販促プランを考案中だ。

 

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販促施策を全国の営業拠点に伝え、実際に店頭で展開してもらうよう、施策内容について資料をまとめていく。

 

近藤さんのキャリアステップ

STEP1 社会人1年目、ニッカウヰスキー株式会社に入社

「英語を使って仕事をしたい」という思い通り、国際部に配属され、海外の洋酒やワインメーカーとの渉外をサポート。担当者が来日した際には、打ち合わせで同時通訳をすることもあった。「1年目で海外メーカーとの折衝の場にいられて、耳にする内容すべてがとても刺激的でした。英語力を評価されての配属だったと思いますが、商品流通の基礎すらわかっていなかったので、周りの先輩や上司には基本的なことから本当によく教えてもらいました」。

STEP2 社会人2年目の営業統合により、ニッカウヰスキーからアサヒビール社員になる

担当していた輸入洋酒やワインの販売元がすべてアサヒビールに移行したため、価格設定などすべて変更することに。ワイン部および洋酒部で渉外担当補佐を担当したのち、九州統括本部 営業企画部 量販MDグループに異動。主要チェーンを担当する営業のサポート業務を担った。「ワインの棚割りでは、『産地や名前を覚えるのが難しく、何を選んだらいいのかわからない』という消費者のために、商品の特徴がわかるPOPをつけたり、価格帯ごとに段を分けて陳列する方法を提案しました。実際に、店頭で自分が考えた棚割りを見ると感激します」。

STEP3 入社8年目、本社のワイン事業部に異動

ブランドマネージャーとして、担当ブランドの全社的な販促施策立案を担う。量販店向けの商品か、業務用(飲食店)向けの商品かで担当が分かれ、近藤さんは量販業態を担当。海外のサプライヤーと、日本のマーケットに向いている新しい商品を模索するため、アメリカ、スペイン、チリのサプライヤーとメールでやりとりを重ね、導入商品を決めていった。

STEP4 入社15年目に1年間、産休・育休を取得。16年目の6月末に職場復帰

1年間の産休・育休を経て、時短勤務で復帰。16時半には退社し保育園に娘を迎えに行くため、限られた時間の中でどれだけ仕事を終えられるか、優先順位を持って取り組むようになった。「洋酒を売るのはすごく難しいと言われていたところから、2014年後半から市場は一変しました。ニーズが高まっている今、再びウイスキーを扱えるのは幸運なこと。ますますウイスキーファンを増やせるよう、施策を考えていきたいですね」。

ある一日のスケジュール

5:00 起床。朝ご飯をつくる。
7:15 家を出る。保育園の送りは夫が担当。
8:30 出社し、メールチェック。社内からの問い合わせに返信していく。
9:00 商品の出荷数量をチェック。
10:00 マーケティングのメンバーと販促施策について打ち合わせ。
12:00 外でランチ(忙しいときは社員食堂で早めに済ませる)。
13:00 資料作成。販促施策を各地区にどう周知させていくかについてまとめる。
15:00 量販統括部のミーティング。情報共有。
16:30 退社し、娘を保育園に迎えに行く。
18:30 娘に夕ご飯を食べさせ、入浴させる。
23:00 就寝。21時ごろに娘と一緒に寝てしまうこともしばしば。

近藤さんのプライベート

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2015年7月、歩けることが楽しくて仕方がない1歳の娘。通っている保育園には園庭がないので、土に触れる機会を与えたいと公園にはよく連れていく。

 

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15年10月、夫の実家がある群馬県前橋市で、子ども向けの小さな遊園地に娘を連れていった。メリーゴーラウンドに初めて一人で乗って、不安そうな表情。

 

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15年11月、姉(右)と大好きなアーティストのコンサートでリフレッシュ!

 

取材・文/田中瑠子 撮影/鈴木慶子

株式会社ボルテージ 代表取締役会長 津谷祐司さん

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1963年福井県生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業後、博報堂に入社。93年から3年半、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)映画学部大学院に自費留学。99年、博報堂を退職し、株式会社ボルテージを設立。映画製作を試みる一方、制作した携帯コンテンツが高い評価を得る。着メロ事業などのヒットを経て、「恋ゲーム(現: 恋愛ドラマアプリ)」事業をスタートさせ、ブレイク。年商100億円超、東証1部上場に導く。著書に『コンテンツビジネスのすべてはUCLA映画学部で学んだ。』(幻冬舎 1400円税抜き)など。会社について書かれた書籍に『「胸キュン」で100億円』(KADOKAWA 1300円税抜き)。

何かを作る、自分で表現する仕事がしたかった

実家が60年続いた繊維工場でした。新しい工場を造ったりするために銀行からお金を借りたりしますから、夕食時の話題が億単位の借り入れの話、なんてことも珍しいことではありませんでした。商品がなかなか売れなかったり、返品として戻ってきてしまったり、父親がトラックに乗って納品に行ったり、従業員を迎えに行ったりするなど、いろんな姿を子どもながらに見ていましたね。

 

のちの起業は、親が会社員ではなかった、ということも影響していると思います。たしかに大変さはあったと思いますが、やっぱりダイナミックな仕事をしようと思うなら、自分で事業をやった方がいい、という気持ちは強烈に植え付けられた気がします。

 

ただ、だからといって、企業で働くことについて否定したりはしていませんでした。実際、自分も大企業で働くことになりました。
もともとモノを作るのが好きで、何かを作る仕事をやってみたかった。子どものころは、ロボットやロケットが興味の対象でしたが、大人になって、もうちょっと哲学的なものに興味が向かうようになりました。何かを自分で表現することもそのひとつ。大学では建築系の勉強をしていたこともあり、就職のときには、博覧会系の仕事がしたいと考えて、博報堂を志望しました。
入社できたときは、うれしかったですね。メディアを通して、世の中に自分の作ったものを送り出せる。楽しい仕事だと思いました。

 

ただ、広告会社の仕事は、自分が実際に手を動かして作るのではなく、企画することが中心なんです。実際に作るのは、外部の会社。アイデアを出したり、企画を決めたり、お金やスケジュールを管理したりするのが、自分たちの仕事になる。大きな仕事ほど、そうなります。
これがだんだん、欲求不満に結び付くんです。最後まで自分で作りたい、と。やがて留学したい、会社を辞やめて映画づくりをしたい、という思いにつながっていきました。

 

留学は、社会人2年目に、学生時代の仲間とスキー旅行に行ったことがきっかけでした。外資系のコンサルティング会社に勤めていた友人が、MBA取得のため留学をするというんです。そのとき初めて、留学という選択肢があることに気づきました。ちょっと仕事に行き詰まっていた時期だったので、面白そうだな、と思ったんです。
ただ、ビジネススクールでいろんな学問を学んでくる、というのは興味がありませんでした。そこで、どんな学部があるのか調べているときに出合ったのが、映画だったんです。フィルムスクールは日本にはあまりありませんし、一気に興味に火がついたんです。

 

留学から帰国後、博報堂で新規事業担当に提案

留学したUCLAの映画学科は、監督コースに合格できるのが、年間わずか20人。ここに世界中から数百人が殺到します。超難関です。結局、仕事をしながら準備をし、2回の不合格を経て3年を要してようやく合格。映画を学ぶことができました。
行ってみて、ハリウッドの厳しい現実も知りました。周辺のカフェでは、やたらイケメンや美女の店員が多いんですが、みんな俳優志望なんです。アルバイトをしながら、夢を追いかけている。しかし、かなうのは1パーセントあるかないか。シリコンバレーのベンチャーも現実は厳しいですが、もうちょっと確率は上かもしれません。

 

映画は直接、仕事には関係がありませんから、休職して自費での留学でした。お金を稼がないといけなくて、アメリカで自分でビデオ販売などのビジネスをしたりもしました。結果的にはうまくいきませんでした。ビジネスに成功すれば、もう少し長くアメリカで過ごし、フィルムスクールで学んだことを生かして、商用映画でデビューしたかった。しかし、それもかなわず、足かけ3年の留学生活は終わりました。
帰国して博報堂に戻り、新規事業を提案しました。ベンチャービジネスを作る仕事です。アメリカでビジネスを自分でやっていたりしましたから、その経験を生かしたかった。

 

大企業が組織でやる仕事は、ある程度、仕組みがもう確立しています。でも、ベンチャービジネスはまったく違います。相当シビアに考えないといけない。僕には経験があったから、事業計画書も、かなりリアリティのあるものを作ることができた。
同じタイミングで新規事業開発の仕事をした同僚は、「こんな現実的ではないアイデアを作って」と上司に怒られたりしていました。売ることを考えず、作ることしか考えていないと、そうなるんです。

 

ただ、大企業の社内ベンチャーには難しさがあります。なぜなら、事業を審査し、評価する人たちが会社員なんですから。事業を作り出した経験がない人が、ベンチャービジネスを判断するのは、極めて難しい。実際、ようやくスタートしてうまくいき始めた事業が、上司が変わった途端に、あっという間に打ち切られてしまいました。これが、もう会社を辞めようと決断したきっかけです。36歳になっていました。

 

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4年間、ヒットが出ない、という苦しみ

仕事をしながら映画の脚本を書き進めていて、ちょうど一本、でき上がっていたんですね。そこで、映画の配給会社に企画を売り込んでみようと思いました。ところが、どこも相手にしてくれない。仕方がないので、自主的に作ろうと考えました。
ただ、もちろんお金が必要になるし、生活もしないといけない。そんなときに出合ったのが、携帯ゲームの制作でした。通信キャリアが月100万円で契約してくれるという。これで最低限、食べていける、とやってみることにしたんです。

 

映画づくりの手法を使って携帯ゲームを作ると、高い評価を受けました。出資させてほしい、というベンチャーキャピタルが次々に現れて、出資総額は3億円にもなりました。ところが、ここから4年間、大変な日々を過ごすことになるんです。
なかなかヒットが出ない。お金が稼げない。出資してもらったお金はみるみる減っていって、あと1年しか持たない、という状況になったのが4年目。ここで、最後の勝負だ、とオフィスを引っ越し、人を新たに雇って挑んだのが、着メロ事業でした。

 

映画を学んだ経験があったので、ストーリーゲームにこだわっていました。うまくいかなかったのは、ここにこだわり過ぎたからだったのだと思います。たしかにそれは自分たちの強みでしたが、業界のトレンドは違っていた。当時は、着メロだったんです。
大事なことは、業界のトレンドと自分たちの強みをミックスさせ、接点を見つけることでした。そこに気づいて生まれたのが、歌詞に特化したドラマ性のある着メロでした。これが大ヒットするんです。

 

苦しい時期を経て、事業をうまくやっていくには3つの要素が重要になる、ということがわかりました。商品と販売と組織です。
まずは売れる商品を作らないといけない。手応えのあるもの。当時でいえば、ドラマ性のある着メロです。自分たちの強みを出せた商品。
そして次が、販売。いかにユーザーに近づけるか。その手法のひとつが、広告です。広告をいかに出すか。広告会社にいましたが、広告のことをまったくわかっていないことに気づきました。大規模なテレビなどのマス広告が打てるのは、一部の企業だけ。小規模な雑誌やデジタルメディアの広告が、よくわからなかった。これを徹底的に試行錯誤しながら、方法論を導き出していきました。

 

そして3つ目が、組織です。もっと言えば、採用。当初は中途採用で人を集めていましたが、当時はどうにもおさまりがよくなかった。もっと優秀な人材が欲しかった。そこで、新卒採用に切り替えるんです。ポテンシャルのある人材を採用して、育てていく。この決断が、会社を大きく変えることになりました。

 

初めての恋ゲームは、新卒第1期生から

新卒の募集をすると、たくさんの応募がありました。有名大学の出身者もたくさん来てくれた。気がついたのは、優秀な女性が数多く応募してくれることでした。男性に比べ、女性は大企業志向があまりないんですね。まだ女性に対して閉鎖的な会社もある、ということに勘づいているからかもしれません。おかげで、優秀な女性をたくさん採用できた。
のちに事業の中心になっていく恋愛シミュレーションゲームも、こうして採用した新卒1期生の女性のアイデアがベースになっています。当時は着メロ事業が中心でしたが、新しい事業を全社員から求めたんですね。そのとき、彼女が自分の趣味だった恋愛ゲームの企画を出してきたんです。

 

恋愛ゲームというアイデアに、会社の強みである映画のストーリー性をミックスして、ゲームを作りました。これが、びっくりするほどのユーザーの支持を集めたんです。
ゲームのアイデアだけがあっても、いいシミュレーションゲームは作れません。そこで、世界観づくりやプロットづくり、キャラクターづくりなど、映画づくりで持っていた知識やノウハウを社内で共有するようにしました。そこに、女性たちの感性を組み合わせて次々にゲームを作っていった。これが、ほかの恋愛ゲームとは違う、と支持してもらえたんですね。

 

振り返ってみたら、創業以来、蓄積してきたことの集大成が、恋愛シミュレーションゲームだったんだと思います。自分たちの大きな強みを生かせる領域に、たどりつくことができた。そして、経営資源を集中させていきました。
女性向けゲームの成功を見て、参入してくる会社もありましたが、数百人の人材を投入して、ここまで集中する会社はなかった。また、2006年からのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の波、12年からのスマートフォンの波にも、社内をうまく変化させていくことで、対応することができた。

 

恋愛ゲームは次々に出していきました。どうしてそんな量産できるのか、と問われることがありますが、ひとつ理由があります。それは、映画づくりの手法をベースにゲーム制作のフォーマットを社内で確立させてきたからです。そしてフォーマットは進化させ続けてきた。
これがあれば、新入社員でもゲームを作れます。実際、入社してすぐに第一線でバリバリ作っている人も多い。フォーマットがあるから、感性を存分に生かすことができるんです。実際、ここまで作りやすくなるのか、と自分たちも実感しています。

 

ゲーム会社というと、大きなヒットを出しても3、4年でピークが来てしまう、というイメージを持っている人もいるようですが、ボルテージは違います。毎年約3割の売り上げアップという成長を、もう8年間続けている、ゲーム業界では稀有(けう)な会社だと言われています。

 

ただ、これまでの成功に安住していることはできません。今後は、新しいチャレンジをしていきます。男性向けのサスペンスゲームの制作や英語版の制作など、新しい取り組みも始まっています。新たな市場を求めていくためにも、積極的に自分たちを変えていかねば、と考えています。僕自身、ここ数年はシリコンバレーのあるサンフランシスコに拠点を移し、北米市場の開拓にチェレンジしているんです。

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これから社会に出る皆さんへ

うまくいかない苦しい時期、いつもやっていたのが、「書く」ことでした。今、起こっていることを、どんどん書いていく。そうすると、頭が整理されていくんですね。不安があっても、次に何をすべきか、という行動に落とし込むことができれば、安心することができます。こうした「書く」ことの意義を、ぜひ知ってほしいと思います。

 

振り返ってみると、就職活動のときも、とにかく書いていました。面接のQ&Aシートを自分で作ってみる。どうして自分はこの業界に行きたいのか、自分で自分に手紙を書いてみる。そうすることで、冷静になれたりする。自分の本心が見えてきたりする。自分で手を動かして書くからこそ、できることだと思っています。

 

企画やアイデアを考えるときにも、必ずペンを使って書いています。今もそうです。考えて、書いて、整理して、やるべきことを決めて実行する。このフローを押し進めていくためにも、書くことが大事。
常にノートとペンを持っておいて、書いてみることです。

 

人生の大きな転機は、留学でやってきたと思っています。もちろん映画を学ぶことができた、ということもそうですが、まったく違う世界で、まったく違う価値観に触れることができた、というのが大きかったと考えています。
いつもと違う場所に身を置き、いつもと違う空気を吸うことで、新しい世界が広がります。可能性を感じられるし、勇気もわいてくる。
社会人になってからの長期の留学も選択肢のひとつですが、学生時代でも一週間から留学できる。それだけでも、行く価値は大きいと思います。

 

社会に出たら大事なことは、勉強する気持ちを忘れないことです。アメリカでも、自己投資をしない人間から落ちていく現実を見ました。これは日本も同じ。会社の仕組みを理解することは大切ですが、意味のないお作法を学んでも仕方がありません。
そうではなくて、外で戦える自分のスキルを身につける意識を持つこと。留学もそうですし、大学院で学ぶことも選択肢のひとつ。それは、のちにきっと生きてきます。

 

津谷さんHISTORY

1985年
東京大学工学部都市工学科卒業。博報堂入社。主に空間プロデューサーとして活動。
1993年
UCLA映画学部大学院 監督コースに自費留学。(卒業作品の編集を完了させ、2002年に卒業)
1997年
博報堂の社内ベンチャーでインターネット事業「おでかけナビ」を起業。
1999年
ボルテージ設立。
2003年
iモード公式サイト向けコンテンツ「歌詞で胸キュン!」配信開始。大ヒット。
2006年
iモード公式サイト向けコンテンツ「恋人はNo.1ホスト」の配信開始。「恋ゲーム」コンテンツ開始。映画『Wanna be FREE! 東京ガール』監督。
2010年
東京証券取引所マザーズ上場。(2011年に東証1部へ市場変更)
2012年
米国・サンフランシスコにVoltage Entertainment USA, Inc.を設立。その後、自身も拠点を移す。

 

愛読書は?

社会人になったら定年までの40年タームで見るのではなく、もっと小さな5年タームで仕事を意識していった方がいい、という持論を持っています。5年ごとに自分でゴールを設定し、そこに向かっていく。5年契約ビジネスパーソン、みたいなイメージでしょうか。この5年間で、こんな仕事をしたい、でもいいし、仕事をしながらこんなことを身につけたい、でもいい。偶然、最近読んだ本に、この考え方に似た話が載っていました。『働く人のためのキャリア・デザイン』(金井壽宏著)。とても良い本だったので、学生の皆さんにもお勧めしたいです。

 

津谷さんの愛用品

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方眼紙のノートとペンは必ず持ち歩いています。カフェに入ると、ノートパソコンで仕事をしている人がいますが、それは違うと思っています。カフェという異空間で、作業のような仕事をしたらもったいない。それよりも外が見えるところに座って、自由に発想して、アイデアを書き出す時間にする。せっかくカフェに行くなら、考える時間にした方がいい。そのときに役に立つのが、書き心地のいいノートとペンです。ペンは、立てられる筆箱に入れて持ち運んでいます。なぜか、企画を考えるときには、青色がいい。お気に入りのノートとペンをぜひ探してみてほしいですね

 

取材・文/上阪徹 撮影/刑部友康

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